障害のある子供が学校に通い出して、バリアフリー化工事をしたので、その一人のためだけではなくて、その後にも障害のある子供が通えるようになってハッピーでした、という話を見た。

 

それ自体は大変結構な話だと私も思うが、たいていそこで終わらない。というのも、「誰がその障害者の世話をしたのか」という問題がスッポリ抜けているからだ。

 

むろん、障害の程度によるわけで、身体の動きに問題はあってもたいていのことは自分で出来て、学習に大きな支障がないなどの場合はともかく、そうではない重度障害の場合はどうなるか。

 

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私が子供の時からこの点はひどかったが、最近聞いた話では、授業中もじっと座って授業を受けるのが難しい重い障害のある子供に、無理やりホームルームの司会役などを任した教師の話を聞いて仰天した。

 

当然、ろくに進行役は務まらないわけだが、「意見を言ってください」など誰にでも言えることを言っただけで先生は猛烈に褒める。あんまり何もできないので見るに見かねた子供が黒子役を買って出て、耳元でセリフを教えて、その障害のある子がその通りに言うと、また先生が褒める。それで黒子役の子供が褒められたならともかく、俄然無視された、という。

 

この障害者の子供に対する先生の態度は一事が万事この調子で、クラスの子供たちはとてもやってられんと憤懣やるかたなく、障害者学級に行くべきだと怒っているそうだが、少なくともこの教師の独りよがりな態度は問題で、子供たちが怒るのも無理はない。

 

こういうのは、障害者の社会参加とは言わない。単に、周囲の善意に頼って、周囲を振り回しているだけだ。教育でも何でもない。

 

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この手の話は昔からあり、私の知人が、中学校のときの修学旅行で、障害のある、あるいはかなりそれに近い同級生ばかりの班に実質的に「世話係」として入れられて、先生たちはほったらかしだった、という話もあったりする。

 

バリアフリー化などの施設整備が重要でないとは思わないが、それでハッピーエンドには絶対にならない。もっと現実的な、難しい問題があるのであって、そこにどう向き合うかが大事になってくるのだろうと思っている。

 

いずれにせよ、上に書いた例ような学校の先生らの態度、またそれを支持する大人たちの身勝手さは論外だ。表向きの麗しさに簡単に感動してもらいたくないのだ。