結局、障害のある人には特別な配慮を無理やりしない、というのが、私のポリシーになった。

無論、障害そのものに配慮をしたり、手助けするのは当然だ。言いたいことはそういうことではなく、善悪の判断基準のようなものを、障害があるからと言って、甘くしたりしない、ということだ。

障害があるからとか、かわいそうだからなどなど、言い訳をつけるといくらでもつけられる。そうなると善悪の基準がぐちゃぐちゃになってしまう。ダメなものはダメ、よいことはよい。そこで健常者と区別をつける必要は全くないし、つけてはならない。

そういうことを書いていたら、たまたま次のような記事が出た。
車いす対応バスなのに「次に乗ってくれ」 運転士「拒否」で40分待ち、「障害者は客として認識されていないのか」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

車いすの人が乗車拒否されたという草津の例だが、障害者の人のコメントに次のようにある。

駅員やバス会社は私たちに対して平気で『待ってくれ』と言います。でも同じように駅員等の支援が必要な外国人や高齢者のひとにそんな発言してるところは見たことないです。つまり、外国人や高齢者は客の対象として捉えているのに、極論で言えば障害者は客として認識されていないのか、と最近思っています。

これは明らかに言いすぎで、本人の精神衛生上も、これは違うとはっきり言ってやるべきだと私は思っている。

もしこの理屈が通るのであれば、私はバスで乗車拒否されている車いす利用者を見たことがないので差別がないことになってしまうし、他方でバス運転手による外国人への差別は厳然として存在する。

自分だけひどい目にあっていると主張するのは、いろんな意味でよろしくない、とはっきり言うべきことは言うべきであって、そこで「障害のある人だから仕方がない」と手加減してはならない、というのが私のポリシーのようなものとなっている。

もうひとつは、自分に無理なことまで背負いこまない、できないものはできないと、はっきり断る。

障害や重い病気を抱える子供を持つ親御さんは、やむなく人にお願いをする。私にできることならいいが、できないことはできないので断っても、それでもなんとか、という親御さんは少なくない。

気持ちは分かるが、できないものはできないのであって、いくらお願いされてもだめで、やらないものはやらない。ここをはっきりさせないと、過大な責任を負わされることになってしまう。

ところが、ここで断ってしまうと、こちらが悪人のような話が流布しかねないわけだが、こういうことはあってはならないのであって、できないものはできないということがある。

冷たいようだが、今のところ、私が真面目に考えた結果がこうなっている。

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私からすれば、障害者の話で簡単に感動できる人たちのほうが、よほど冷たい。どこまで行っても他人事にとらえているからだ。

ましてや、障害者をネタに利用する人たちの気が知れない。よほど冷酷無残な人たちだと思う。