たまたま、リフレ派の人のtwitterを見ていて、相変わらずだなぁと思った。

 

いつも書くように、私は経済学について全く何も知らない。ただ、自分の良く知らないことについては、素直に常識で考えることにしている。

 

相変わらず、というのは、相変わらず「クルーグマンが」というご託宣を使っているところを見たからで、相変わらずだとしか言いようがない。

 

こういう場面をたまたま見てやはり思ったのは、この種の学者のいいところ取りをするだけで本当にいいのだろうかという素朴な疑問だ。

 

たとえば、少し前、たまたまクルーグマンのコラムを眺めたら、エリザベス・ウォーレンを引き合いに出して、ごく少数の富裕層が政治に大きな影響を与えている、という話を書いていた。

 

それはそれで読み物として読むとして、こういう話とリフレの話がつながるはずだ。それがどうつながるか、という話は詳しい人に任せるとして、ネットのリフレ派の人たちはこういう話をどう読むんだろうか。

 

もちろん、ちゃんとした人はクルーグマンの書き物には一通り目を通して、全体の見通しを持っているんだろうから、それはそうあるべきだと思うが、問題はそういう人以外の圧倒的な多数で、その圧倒的多数はいいとこのつまみ食いしかやっていない。

 

そのつまみ食いだけで、ご託宣を崇め奉ったり、いろんな批判をやっている。

 

本当に、それでいいんだろうか。

 

私は、文学や音楽や歴史が好きな人間だけれども、そういう分野でもネットのリフレ派のような人たちの態度では何も分からない。だから、好きな話であっても、たまにこのブログにしょうもないことを書くと、よく、後悔する。

 

たぶん、後悔しない人たちの方が、よっぽど、幸せなんだろう。


ただ、これは政治・経済問題だというところで、一体それはどうなんだと思う。


今の日本がいかにダメになっていて、今の日本人がいかに劣悪になっているか、ネットの方々でよく見る。

 

私もそういうことはよく書いていて、たとえば今の政治状況を見ていても、日本人の倫理観念が問われているのに、そういうものに全く答えない、背骨がない反応しかない現状は一体何かとよく思う。

 

「日本スゲー」はもういいのであって、むしろ自分自身を批判的に見るのは良いことでもある。

 

ただ、ここまで来たらもう一歩進んでもらいたいと、眺めていて歯がゆい思いをすることが多い。

 

・・・

 

つまり、

 

「だから日本はダメなんだー」

 

「そーだよねー、日本人のそういうところがなー」

 

で終わってしまっていて、その先の議論が何もない。

 

これでは、「日本スゲー」の裏返しでしかないうえ、何よりその「嘆賞」とでもいうか「観照」とでもいうか、そういう態度そのものが批判されているのではないか、という自覚があるように、とても見えない。

 

ダメだと思うんだったら、行動しろ。日々の生活に生かせ。

 

それをする勇気がないんだったら、単なる臆病だ。義を見てせざるは勇無きなりという。愚痴るだけ無駄なんだから、黙ってたほうが、エネルギーの無駄にならなくていいよ。

 

・・・

 

私の場合は、日々の生活に、批判を生かしていこうと自分なりに努力しているつもりだ。

 

ごくごく身近な日常生活から変えていくことが大事なのだと、私は考えている。ネットで愚痴っているだけでは、どうにもならない。

掛け算の順序問題は、基本的には試験の点数に無駄にこだわる親が悪いと私は思っているが、次の現役教員のtweetは一言言いたくなる。

 

https://twitter.com/chiyosuke1002/status/1201512309413175297

ちよ助@chiyosuke1002
返信先: @tententonton2さん
現役教員です。
2年の段階で式の順序を理解していないままだと、後々割り算で詰みます。特に少数が絡む割り算で立式が上手くできない子の出来上がりです。

 

12月初旬のtweetをたまたま見かけたんだが、主旨そのものは個人的には同感のところがある。つまり小学校のカリキュラム全体を見渡して、掛け算の順序の意味するところについて説明しようとしている。

 

それに対していろいろ反論が付いているんだけれども、実は私はこの現役教員の方の主張は全く机上の空論だろうと考えている。

 

なぜならば、掛け算の順序の問題をしっかり教えることが、割り算の理解にそれほど大きな影響を与えているとは到底思えないからだ。

 

小学生が、割合や速度の問題など割り算を多用する文章題をいかに理解していないかを示す端的な証拠として、「み・は・じ」を挙げることができる。

 

「み・は・じ」というのは、速度の文章題を解く方法で、分子のところに「みちのり」分母の左側に「はやさ」、右側に「じかん」を置く。こうすると、たとえば道のりと時間が分かっていたら、「み÷じ」とただちに数字を当てはめれば、「は」つまり速さが出せる、というものだ。

 

私が小学生のころにこんなものはなかったように記憶しているが、今時の小学生はこんな愚劣なことを教えられていると知ったときは仰天した。

 

というのも、どうして道のりを時間で割れば速さが出てくるのか、そこの理解は全く問われておらず、完全にどうでもよくなっているからだ。

 

もちろん、学校でも説明はされているし、教科書にも書かかれてある。したがって、本来はなぜ道のり割る時間は速さなのかという理解が重要だということは、教科書レベルでも明らかであり、そこを理解していさえすれば、「み・は・じ」などというものを覚える必要性は全くない。

  

ところが、現実にはこの「み・は・じ」を利用する子供の方が多数であり、なぜそうなのかを理解することは完全に閑却されている。彼らも、掛け算の順序を教えられているはずなのに。

 

これが現実だ。

 

・・・

 

さて、話を最初に戻す。

 

掛け算の順序をきっちり教えることで、割り算の理解が確実になるというのは、たぶんウソである。ウソと言って悪ければ、せいぜい机上の空論だ。

 

なぜならば、速度の問題でさえこの体たらくであり、ましてや割合の理解に至っては、本当に大変であって、掛け算の順序を理解していれば、こういった問題が解決される、割り算の理解が進むはずだとは私には到底信じられない。

 

・・・というふうに、私だったらこの現役教員氏に反論する。

 

掛け算の順序は、せいぜい、「式にはそれぞれ意味がある」ということを小学校2年生の小さな子供たちになんとなく感じさせれば、おそらくそれで十分なのだと思う。それ以上の意味合いを主張することは、現実性を欠くだろう。

 

つまり、もしも現場の先生たちを批判するとすれば、掛け算の順序に過度に意味合いを持たせることについて、だ。他方で、頭の固い教師に親が文句を言いたくなるのもよく分かるが、先々どうせ掛け算の順序の問題なぞどうでもよくなるのであるから、細かいことにこだわるのはどうか、あんたがた、どうせ単に試験の点数を上げたいだけなんだろう(ほんまにあほや)、と言いたくなる。

引きこもりや家庭内暴力などなどの話は、私の身の回りや、私自身の経験を見て考えてもいろいろ思うことはある。

 

ちゃんとしたことは専門家にゆだねるべきだと思うが、その人をそのまま肯定して受け入れられるような人、正面から対峙してくれて付き合ってくれる人を見つけられるかどうかなのだろうということに尽きる。

 

その人を受け入れるのは、必ずしも親である必要はない。

 

社会不適合者という言い方があるが、しかし社会は均質であるはずがなく、様々な人によって構成されているはずだ。社会という言葉になにか固い、しっかりした性質を想像して、そこに人間を当てはめようという、そういう発想そのものに私などは違和感を持つ。

 

人が社会に適合しないことが問題なのではない。社会がその人に適合しないことの方がよほど問題なのだろう。

 

・・・

 

何かの本で、精神科医やカウンセラーは、そういう子供の問題について親の責任や問題点を追及するのは極めて難しい云々という話を読んだことがある。確かに、親の責任を追及したところで、カウンセラーの言うことに耳を傾けてくれるわけでもなく、親の精神状態までおかしくなってしまうと元も子もないわけで、もっともな話だと思った。

 

しかしながら、私のごくごく身近な世間を見渡してみると、親に問題があるだろう、おい、というケースが非常に多いような印象はある。

 

子供が刃物を振り回して暴れるような場合、本当にその子の精神的な異常とだけ片づけてしまっていいのかどうかは、慎重な検討を要する。

 

そこまで子供を追い詰めたのは、親のものの考え方ではないか。親自身に本当に問題がないかを検討した方が良いように、はた目から見ていて思うことがよくある。

 

もっとも、そこで親の方が反省できるならましで、たいていのケースでは親自身にどういう問題があるかを反省する気も、する能力もない、つまり完全に親と子で世界がずれてしまっているパターンの方が圧倒的に多いはずであって、なんというか、現場にいる専門家たちの苦労を思うと、何とも言えなくなる。

 

・・・

 

それにしても、自分の子をぐさぐさに刺しまくって殺しておいて、家庭の問題の多くをその子に起因するものと説明したうえ、高裁で保釈されたら超高級ホテルに泊まって、それなりの恰好をして夫婦でそこのレストランで夕食をするという、その神経が、私なぞにはまず理解できない。

 

もっと理解できないのは、確かに悲しい事件には違いないが、被告人を過度に擁護する空気の存在で、「家族と言えども、他人は他人、誰かの所有物ではないのだ」と何度でも繰り返し言いたくなる。

 

被告人は非常に優秀な人なんだろうが、それとこれとは別の問題だと思わざるを得ない。

 

そりゃ、子供も暴れたくなるだろう。。。そう。暴れたくなる子供の気持ちが分かるような、そんな気がすることがどんなにか多いことか。

法の下の平等」というのは、どこの国でも実態は怪しいものなのかもしれないが、しかし何回でも確認しておく必要はあるのだろうと、このところつくづく思っている。

 

・・・

 

私の身の回りを見回して、引きこもりの人や、精神疾患を患っている人などはそう珍しくない。中には刃物を振り回して家族に危害を加えたという話も聞く。

 

このような場合、家族以外の人間に危害を加えてはいけないからと言って、家族の中だけで「処理」すること、つまりその人を殺害することが是認されるとは私は考えられない。

 

もちろん、家族だけがつらい問題を抱えることは到底不可能だ。だから、あらゆるところに助けを求めるべきであり、それをしないことのほうが大いに問題だ。

 

もちろん、これはつまり社会としていかにこのような問題と向き合うかということで、「行政や警察に頼ろうとしても、まともに対処してくれない、あてにできない」という現実はあるのだろうが、これはこれで考えないといけないには違いない。

 

しかししばしば起こるのは、行政や警察に頼ることそれ自体を否定してしまい、せいぜい親族知人の範囲内で何とか対処しようと頑張ってしまうパターンで、これは良くない。無理なものは無理であって、頼られる側も困ってしまう。

 

つまりは、社会としてどう向き合うか、一段ともっと考えようという話になるべきであって、「他人に迷惑をかけないように家族内で処理した親はよくやった」「サムライだ」などというのは、全く理解に窮する。

 

むしろ、そんな家族では、親子関係はそもそも成立できようはずもなく、一刻も早く家族関係を断ち切る勇気が必要だ。

 

家族とはいえ、個々の人間はそれぞれ全く別であって、誰かの所有物として自由に処分できるというようなものではないし、そういうことがあってはならない。

 

家族だからという美名の下で、いかなる人権侵害が行われて、黙認されてしまっているか。

 

一生施設にいるほうが、親に殺されるよりははるかにましだろう。

 

・・・

 

現在話題になっている話で私が気になっているのは、「引きこもりの息子のせいで、娘の縁談がどれも破談になってその娘は自殺した」という話だ。これだけ聞くと、なんとかわいそうな、ということになる。

 

しかし、この話は本当なのだろうか。社会的地位のある父親の娘なら、立派な嫁ぎ先もあったのだろうが、何もそのようなところに嫁がねばならないものではない。引きこもりで暴れる息子のせいで結婚できなくなったという話をその娘が信じていたとしたら、そちらの方がよほど問題だろう。根拠のない事を信じ込まされていただけなのだから。

 

そういう話にならず、娘が自殺した原因も、父親が処分した息子のせいだという話になってしまうのは、どう考えても解せない。

 

「死人に口なし」とはこのことだろうと思うが、そうはっきり誰も言わないのだろうか。

 

40歳を超しているとはいえ、殺された人が大層気の毒に思われてならない。言いたいことがいろいろあったろうに。

掛け算順序問題は、以前にもこのブログに書いたことがある。面倒くさいのでリンクしないが、ネット〇〇派扱いになっている。基本的には、教授法の方便としてやっているだけではないか、という線で書いていた。

 

それから10年近くたっているんだが(こんなバカな議論を10年もやってんだね)、先日面白いと思ったのは、この時期になると小学校2年生が掛け算の文章題を習って試験されると×になってしまうので、それに憤慨する親がネットに挙げて、それに同調する人たちが騒ぐのだ、という話だ。

 

そんなことなのではないかと思ったが、要するに、子供の試験の点数が落ちるので、それで親がガタガタするだけの話だろう。

 

この問題に限らず、小学校段階の試験の点数を細かく気にする親というのがいるんだが、私はたいていの場合、あまり心配する必要はないと答えることにしている。

 

たとえば、この掛け算の順序の場合、どんなに遅くとも中学校になっても拘束される規則ではなく、仮に小学2年の試験で順番を間違えたとしても、心配する必要は全くない。掛け算の順序にこだわるあまり、交換法則が理解できない子供がそれほどいるとは思えないわけで、実際、交換法則はちゃんと勉強するようになっている。

 

むしろ、ここで親がガタガタ言うことの方が教育上、大いに問題だ。

  

・・・

 

しかしこのことは、小学校につまらない規則がないことを意味しない。たとえば、筆算の足し算引き算掛け算の場合、横線を引かなければならないが、この横線を必ず定規で引くように、少なくとも私の知っている小学生たちは指導されている。定規を使わなければ間違い扱いになる。

 

もちろん、これは愚劣な規則で、単に時間が無駄になるだけだし、間違い扱いにする必要は全くない。だから、子供たちには、とりあえず今のところはそれでいいけれど、絶対に定規を使わねばならないものではない、手書きでいいのだということを、大人たちははっきり伝えておく必要はあるだろう。

 

・・・

 

掛け算の順序の問題がいかに些細で下らない問題か。

 

たとえば小学校に英語の授業が導入されるにあたって、国語の授業が減らされるように聞いているが(本当かどうかは確認していない)、こんな愚かなことがあるかと率直に思う。

 

国語の文章のみならず、算数の文章題や、理科や社会の日本語がそもそも理解できない人間が多いのに、なんで国語の時間を減らすのか。

 

学習時間が窮屈になっているのであれば、学校行事を削減すればよいだけの話だ。運動会や音楽会は本当に時間の無駄なので、あんなものはすべてやめてしまえばよい。準備を含め、学習時間を削ってまで時間を作って、あんなものに子供たちのエネルギーを浪費させるのは本当に愚の骨頂だ。

 

問題の本筋は例えばこういうところで(他にもおかしいと思うことはあり、そういうことはたまにこのブログでも書いている)、掛け算の順序の問題では到底ありえない。