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 PsycheRadio @marxindo


「自分は何をやりたいのか」「自分は何のために生きるのか」なんてことを考えなくていいほうがみんな幸せなんじゃないかと思うラジよ。

確かにそうかもしれないが、その代わり、そういうことは別の人が考えているものだ。その別の人が「お前はこれをしておけ」「これのために生きているのだ」と教えてくれる、ということ になるだろう。楽には違いない。

 

しかし、それで本当にいいのだろうか。

 

「自分は本当は何をやりたいか」というのは、その人自身の本性に根差す問題のはずで、その人自身が植物のように少しずつ成長させていくべき話でもあると私は思う。ある意味、「治療効果」もあり得るように感じている。

 

だから私は、子供とも大人とも話をするときは、その人が何をしたいのか、どんなに小さくてもくだらなくてもいいので、それを話してもらおうとすることが多い。そこに、その人自身のなにごとかが現れるはずだと信じるからだ。

 

同じことは「自分は何のために生きているか」という問題にも言える。この問題は人間しか考えられないはずで、人間が人間らしく生きるには必須だろう。

 

これらの問題は重いので、まともに向き合うとしんどいということは理解できる。

 

しかし、そこから逃げていては、人間らしく生きることはできないのではないか。私はそう思っている。

 

雅子皇后の英語はメラニア夫人より上手で当たり前 – アゴラ

 

保守派で安倍内閣にも大変に近いと思われる八幡和郎がこんな記事を書いていて、笑ってしまった。言っていることにもっともな点が少なくない。たとえば、

 

「雅子皇后がトランプ夫妻と通訳なしで話して盛り上がった凄い」と、ゴマをすっているマスメディアは本当にどうかしている。(中略)

外交官の娘で帰国子女、海外留学、本人も外交官なのだから英語がネイティブ水準なのは当たり前だ。小学校、高校、大学がアメリカで、大学院もイギリスに留学されているのである。

 

語学力に優れているのは、ほかの妃殿下も同様である。高円宮妃殿下はプロの英語の通訳だったし、フランス語も素晴らしい。スピーチ能力は英語・フランス語・日本語ともに雅子様より明らかに上だ。イギリスのカレッジ出身である三笠宮信子妃の英語もネイティブ水準の品のいいクイーンズ・イングリッシュだ。紀子様アメリカ育ちでウィーンにも二年間おられた帰国子女である。海外で高等教育を受けられていないので、その分、ハンディはあるが英語・ドイツ語はそれなりの水準のようだ。

 

別に雅子皇后がほかの女性皇族より語学力や社交能力において明らかに優れているわけでない。外交官としての実務経験とかいっても、役所に入って数年だけであるし、海外に赴任して外交官として仕事した経験はないから外交官として陛下にとって最高のアドバイザーなどであるはずない。

保守派からこういう話が出てくるのに引き換え、週刊誌レベルの記事の異常さは目に余るものがある。

 

これは、どういうことなのだろうか。

 

「ヨイショ記事」のほうがページビューが上がる現実があるので、そういう傾向の記事がむやみに出てくるということもあるのだろうが、それにしても八幡の論調は浮いている。

 

浮いている理由としては、八幡が腐っても通算官僚出身であること、内情をそれなりに知り得ること、外務省とは一定の距離をもてること、などが容易に推測はできる。もっと露骨な言い方はできるが、避けておく。

 

こういう言語空間の中に私たちは生きているわけだが、しかしメディアの論調に簡単に乗っかる人たちも非常に多い。

 

気持ち悪いし、こんなことで本当にいいのだろうか。

 

戦後知の可能性―歴史・宗教・民衆

戦後知の可能性―歴史・宗教・民衆

 

天皇の戦争責任問題を回避してきたのは大問題だと思うけれども、「大衆」「庶民」「民衆」を徹底的に批判できなかったことが非常に大きな問題ではなかったか。

 

戦争責任から回避した昭和天皇の「無倫理性」に唖然とするのはよいとしよう。天皇制・天皇を批判することもよい。

 

しかし、その天皇制に支持を与えて、愚劣な戦争に邁進した「民衆」の責任を無視することはどうしてもできない。

 

天皇の抱えた責任と「民衆」の責任はコインの裏表で、昭和天皇の「無倫理性」は「民衆」の「無倫理性」なくして成立しないはずだ。

 

戦後の混乱や貧困で責任をとったという部分はあるのかもしれないが、天皇の責任問題がうやむやになっている以上、「民衆」の責任は十分果たされたとは言えない。

 

天皇を批判するならば、同時に「民衆」を批判しないといけなかったが、結局、右翼はもちろん、左翼も「民衆」を徹底批判することはできなかった。

 

つまり、自分を突き刺しながら、「民衆」「大衆」も刺しに行く勇気のある人間がほとんどいなかったのかもしれない。

 

たとえば網野善彦は、単純な批判では天皇制を打倒できないことに気づいていて、草の根の世界を描くことで、現実の複雑さを描こうとした。

 

しかしその網野ですら、「大衆」「庶民」への徹底批判はできなかった。せいぜい、異常な熱心さで講演会や草の根サークルをまわるので精一杯だった。それでも立派なのだろうと思う、けれども。

 

・・・

 

そして、ネットの雀たちの鳴き声を聞いていると、「大衆」「庶民」「民衆」(どういう言い方でもいいけれど)の無倫理が、右翼左翼関係なく、腐臭のように漂ってくる。

 

この人たちはそれほど善人でも無垢でもなんでもないし、ましてそういう自覚は全くない。ただただ、自分は悪くないと言いつのるのみで、こちらはその醜悪さに吐きそうである。

 

あの時にこってんぱんにやっておかなかったことのツケが、甘やかしてしまったことの報いが、充満しているように、私には思われる。

 

 

リフレ派ウォッチ。

安倍首相:完全雇用は達成、2%物価目標は「一応」の目的 - Bloomberg

安倍晋三首相は10日午後の参院決算委員会で、政府と日本銀行が掲げる2%の物価安定目標には届いていないものの、完全雇用など「本当の目的」は達成しているとの認識を明らかにした。金融緩和の出口戦略については日銀に任せる考えを示した。大塚耕平氏(国民民主)への答弁。

  安倍首相は自らの経済政策について、「2%の物価安定ということが一応目的だが、本当の目的は例えば雇用に働き掛けをして完全雇用を目指していく、そういう意味においては金融政策も含め、目標については達成している」と指摘。「それ以上の出口戦略うんぬんについては日銀にお任せしたい」とも述べた。

つまり、名誉ある撤退の開始を首相が容認した、と。

 

言い方を変えると、総理の面目が立つように撤退できるようになった、ということなんだろう。

 

それにしても、「それ以上の出口戦略云々については日銀にお任せしたい」のこの言い草。本人が考えたのか、別の人がこの言い方を考えたのかはともかく、もうちょっと別の言い方があるだろうに。

 

父親が「引きこもり」の息子を殺した事件は、家庭内暴力の話が出てきている。いろいろ察するわけだけれども、子供の方にも言いたいことは山ほどあったはずであって、父親の言い分だけ垂れ流しにされるのはどうかとやはり思う。あまりいい気分はしない。

 

・・・

 

子供と大人は、どう考えてもそれほど対等ではない。

 

全く事情が違う事件だけれども、うちの近所で、日常的に娘と性的関係を持っていた父親が、その娘に切りつけられたうえ、娘が家を放火したことがあった。幸い誰も死ななかったと聞いているが、この父親は死んでいてもおかしくはなかったろう。

 

こういう場合は、私は娘のほうに随分事情を汲んでやりたいという気の方が先に立つ。

 

親と子の力関係が全く異なるからだ。

 

それは、40ヅラ下げたオッサンとその父親・母親の関係でも結局同じで、物理的肉体的にはともかく、結局子供のころまでさかのぼらないとどうにもならない。大人の中の子供に話を聞いてやらないといけない。

 

極端な手段に訴える前に、できることはたぶん、かなりあった。浄瑠璃まがいの悲劇が起きる前に、大変に難しい問題だとけれども、一人でも多くの子供とその親が救われてほしい、そう思う。

周りを見回していて、「あんたの狭い世界観や価値観を他人や子供に押し付けるなよなあ」と思うことが非常に多い。

 

子供は親に対して立場が弱く、生死に関わるので、この「狭い世界観や価値観の押し付け」が大変に起きやすい。

 

その結果としていろいろな問題が発生するのだが、これは引きこもりや不登校という目に見えやすい結果になるならまだしも、そうはならず、世間的には優秀で、一見活躍している人が「狭い世界観や価値観」の檻に閉じ込めさせられてしまって苦しんでいる場合も少なくない。

 

もちろん、親子関係だけではなく、広く社会を見渡しても、そういう話にあふれかえっている。

 

・・・

 

なぜこういうことになるか。答えは容易に出ないが、今の日本人は「人間とはどういう生き物か」という問題を徹底的に考えていないのではないか、とはよく思う。

 

過去を振り返るとそういうことが全くなかったわけではなく、たとえば浄瑠璃のよくある悲劇で「もっともじゃ、もっともじゃ」と泣き落としに入る時に、その「もっとも」には、「人間ならばそう感じてもっともだ、当然だ」という、人間に対する洞察がそれなりにある。その洞察は、もちろん時代や社会に制約されている面があるわけだけれども、そのうえで、「人間」そのものに通ずる何かを感じるので、だから聞いているほうも「もっともじゃ、もっともじゃ」と共感できる。

 

したがって、歴史的に「人間とはどういう生き物か」を考えたことが一切ないとは思わないが、しかし今の日本人にそういう洞察が大きく欠如しているようにしか、私には見えない。

 

だから、親子関係でも、社会における様々な場面でも、他人に「狭い世界観や価値観」を押し付けたうえ、功利的にしか考えられないし、そういう人間たちに対して、

 

「いや、違う、自分はそうじゃない」

 

という対抗力、抵抗力が出てこない。

 

人間はどういう生き物なのだろうか。答えはでないけれども、そういう疑問を抱えながら生きていきたいし、そういう疑問がもっと広く持たれるべきだとも思っている。