たまたま、リフレ派の人のtwitterを見ていて、相変わらずだなぁと思った。

 

いつも書くように、私は経済学について全く何も知らない。ただ、自分の良く知らないことについては、素直に常識で考えることにしている。

 

相変わらず、というのは、相変わらず「クルーグマンが」というご託宣を使っているところを見たからで、相変わらずだとしか言いようがない。

 

こういう場面をたまたま見てやはり思ったのは、この種の学者のいいところ取りをするだけで本当にいいのだろうかという素朴な疑問だ。

 

たとえば、少し前、たまたまクルーグマンのコラムを眺めたら、エリザベス・ウォーレンを引き合いに出して、ごく少数の富裕層が政治に大きな影響を与えている、という話を書いていた。

 

それはそれで読み物として読むとして、こういう話とリフレの話がつながるはずだ。それがどうつながるか、という話は詳しい人に任せるとして、ネットのリフレ派の人たちはこういう話をどう読むんだろうか。

 

もちろん、ちゃんとした人はクルーグマンの書き物には一通り目を通して、全体の見通しを持っているんだろうから、それはそうあるべきだと思うが、問題はそういう人以外の圧倒的な多数で、その圧倒的多数はいいとこのつまみ食いしかやっていない。

 

そのつまみ食いだけで、ご託宣を崇め奉ったり、いろんな批判をやっている。

 

本当に、それでいいんだろうか。

 

私は、文学や音楽や歴史が好きな人間だけれども、そういう分野でもネットのリフレ派のような人たちの態度では何も分からない。だから、好きな話であっても、たまにこのブログにしょうもないことを書くと、よく、後悔する。

 

たぶん、後悔しない人たちの方が、よっぽど、幸せなんだろう。


ただ、これは政治・経済問題だというところで、一体それはどうなんだと思う。