扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part153 学者はそれでいいけれど

経済学者の斎藤誠が、いい文章を出していた。
斎藤誠先生はリフレ派ではないけれども、とりあえずリフレ派絡みということでこのタイトルで。念のため。)
齊藤 誠 on Twitter: "【2016年12月18日】浜田先生とのこと
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【2016年12月18日】浜田先生とのこと

経済学も何にもしらない人間からすると、そうだろうなあと思った。いい文章だと率直にそう思う。

ただ、「そうそう、そこで話が一般とずれてんじゃないの」という点があった。例えばこういうところ。浜田教授がいかに経済学者の間で尊敬されているかとして、

比喩が適切でないかもしれないが、クルーグマン教授は、NYTのコラミストではなく、国際経済学や空間経済学の革新的な研究者として、経済学研究者の間で深く尊敬されているのだと思う。

と言っている。これはよくわかる話で、学者としての業績は、学者でないと分からないから、それを知るものは深く尊敬するのは当然の話で、むしろそうあるべきだと私も思う。

ところが、ごくごく一般的には、例えばクルーグマンの場合、NYTのコラムを書いているノーベル賞の経済学者として認識されてしまうのも、これまた当然だと思う。一般の人間にはクルーグマンの業績なんて理解できないので、それがいかに偉大なことが理解できるわけがない。

したがって一般の人間の間では、「この経済学者はノーベル賞を取るくらい、立派な学者なんだ」という権威づけだけが先行してしまい、そうなると簡単に読めて、日本語にも少なからぬ量が翻訳されているNYTのコラムを、その権威の下で読んでしまうということが発生する。

つまり、批判がきかない状態でどうしても読まれてしまう。平たく言うと、鵜呑みされる。

ところが、クルーグマンは、経済学者としての見識に基づいているとはいいながら、所詮は新聞のコラムを書いているのであって、また話題が広がると自分の専門分野以外の話も当然する。クルーグマンが偉いのは、彼が上げた業績によって尊敬されるのであって、そこから離れたときに、クルーグマンの主張が同じように立派で尊敬されるべきかというと、それはそれで別問題だろう。

machineryさんがクルーグマンに対する違和感をブログで書いておられたけれど、それは「クルーグマンは日本のことをよく知らず、現実をよく知らずに書いてるだろう」というものだったと思う。私もそうなのではないかと思っている。

以前にも書いた同じ例えをすると、ある音楽家がピアニストとして超一流であっても、その人がヴァイオリンでも超一流であることはまずありえないのは当然だと、誰だってそう考えるだろうけれども、それと同じことを経済学者にあてはめるとどうもそういう風に受け取られにくくなってしまう。

そういう問題はあるんだろう。

もう一点。

最近、浜田先生が金融政策について考え方を修正されたことがメディアで報じられたが、私はその経緯をまったく知らない。ただ、よく言われている「変節」ということでは絶対にないと思う。先生のお考えでは、最初の最初から、複数均衡ということがあられたとのだと思う。今の日本経済が「悪い均衡」にあって、それを「良い均衡」に誘導する手段としてマクロ経済政策を位置付けられているので、その内実が経済状況に応じて修正されるのは自然なことだと思う。

で、これは学者としてはそれでいいんだろうし、むしろそうあるべきなんだろうとも思う。

ただ、首相に強い影響力を及ぼしうる立場にいる経済学者としてはどうなのかというとそれは別なんじゃないかと思う。政策判断は学問と違う。学問は知見を更新して修正することは必要だけれども、政策を実行する場合、その政策は一回きりのバクチなのであって、本質的には修正がきかないものではないかと思う。もちろん、ある政策をやってみてうまくいかないから修正します、ということは必要であるけれども、しかしずっとそういう態度でいられては困るのではないか。

大きく言えば、一度戦争をやってみましたがうまくいかないのでやめます、ごめんなさい、というわけにはいかない。

もちろん、経済政策と戦争は大きくことなるし、経済政策のほうが修正の余地がはるかに大きいと思うけれども、しかし根本の部分では両者はそう大きく変わらない。

あるいは中央銀行の副総裁が経済学者なのはいいとして、「入ってみてからいろいろ分かりました」と言い出すとか、自分が掲げた目標に職を賭けていたはずなのにいまだに辞めないとかいうのでは、困ってしまうし無責任も甚だしいとしか言いようがない。

昨年死去したヘルムート・シュミットが、最晩年、「近頃の政治家は間違えても死ぬことがないからダメだ」というようなことを言っていたらしい。一度間違えたら命がないぞという緊張感が政治には必要だということだろうが、これは政治家に限らず、政策判断にかかわる人たちはみな同じであるべきだと思う。

政策判断やその実行と学問は根本的に全く異なる、政策判断・実行は一度きりのバクチだ、という認識が、もちろん学者さんたちはそんなことは先刻承知なんでしょうが、でももっと持たれてもいいんじゃないのかな、という印象は持った。