引きこもりや家庭内暴力などなどの話は、私の身の回りや、私自身の経験を見て考えてもいろいろ思うことはある。

 

ちゃんとしたことは専門家にゆだねるべきだと思うが、その人をそのまま肯定して受け入れられるような人、正面から対峙してくれて付き合ってくれる人を見つけられるかどうかなのだろうということに尽きる。

 

その人を受け入れるのは、必ずしも親である必要はない。

 

社会不適合者という言い方があるが、しかし社会は均質であるはずがなく、様々な人によって構成されているはずだ。社会という言葉になにか固い、しっかりした性質を想像して、そこに人間を当てはめようという、そういう発想そのものに私などは違和感を持つ。

 

人が社会に適合しないことが問題なのではない。社会がその人に適合しないことの方がよほど問題なのだろう。

 

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何かの本で、精神科医やカウンセラーは、そういう子供の問題について親の責任や問題点を追及するのは極めて難しい云々という話を読んだことがある。確かに、親の責任を追及したところで、カウンセラーの言うことに耳を傾けてくれるわけでもなく、親の精神状態までおかしくなってしまうと元も子もないわけで、もっともな話だと思った。

 

しかしながら、私のごくごく身近な世間を見渡してみると、親に問題があるだろう、おい、というケースが非常に多いような印象はある。

 

子供が刃物を振り回して暴れるような場合、本当にその子の精神的な異常とだけ片づけてしまっていいのかどうかは、慎重な検討を要する。

 

そこまで子供を追い詰めたのは、親のものの考え方ではないか。親自身に本当に問題がないかを検討した方が良いように、はた目から見ていて思うことがよくある。

 

もっとも、そこで親の方が反省できるならましで、たいていのケースでは親自身にどういう問題があるかを反省する気も、する能力もない、つまり完全に親と子で世界がずれてしまっているパターンの方が圧倒的に多いはずであって、なんというか、現場にいる専門家たちの苦労を思うと、何とも言えなくなる。

 

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それにしても、自分の子をぐさぐさに刺しまくって殺しておいて、家庭の問題の多くをその子に起因するものと説明したうえ、高裁で保釈されたら超高級ホテルに泊まって、それなりの恰好をして夫婦でそこのレストランで夕食をするという、その神経が、私なぞにはまず理解できない。

 

もっと理解できないのは、確かに悲しい事件には違いないが、被告人を過度に擁護する空気の存在で、「家族と言えども、他人は他人、誰かの所有物ではないのだ」と何度でも繰り返し言いたくなる。

 

被告人は非常に優秀な人なんだろうが、それとこれとは別の問題だと思わざるを得ない。

 

そりゃ、子供も暴れたくなるだろう。。。そう。暴れたくなる子供の気持ちが分かるような、そんな気がすることがどんなにか多いことか。