「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条(1/10) | JBpress(Japan Business Press)

 

トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資:「表現の自由」水かけ論より問われる財政規律(1/9) | JBpress(Japan Business Press)

 

シンポジウム「2019年‐2020年、アートは異物を受け入れるのか」開催のご案内

http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2019/07/20190719073003.html

 

神戸新聞NEXT|総合|津田大介氏招くシンポ、中止を発表 主催者側

 

・・・

 

愛知の当該展覧会は再開したらいいじゃないかという声をみるんだけれども、どこまでも安易な発想だと思う。伊東乾の言うように、そもそも予算の問題をクリアしなければならない。警備員や入場者の手荷物検査などの費用は当然公金だが、事前に想定されてないはずである。

 

そういうことを誰も考えていない。

 

・・・

 

問題はいろんなところにあって、役所は動員人数しか見ないので、津田大介のような名の知れた人を担いで、目立つことをやって動員を稼げたらいいや、くらいにしか考えてなかったのではないかと思う。

 

リスクをちゃんと考えていないことの問題は、別の議論でもやっぱり出てきて(それも津田がえらく推奨していたわけだけれど)、とりあえず芸術に限定すると、役所の人たちのほとんどは芸術に全く無関心で、芸術家にリスペクトがない。名古屋のような大都市でもそうなんだったら、私の住んでいるような地方都市はなおさらそうだ。

 

一度、高校生に世界一の演奏家がレッスンを付けるという公開講座があり、見に行ったことがあるが、後ろにいた公務員のおっさん(たぶん学校の先生)が、いきなり直接介入して生徒に指示を出したのでびっくりしたことがある。

 

この地方都市では、世界一の音楽家よりも、学校の先生のごとき地方公務員のほうがはるかにエラい、という現実をよく表した瞬間だった。

 

これも学校の先生だから特殊というよりも、公務員はだいたいそういうもので、「田舎の田んぼの世話のことしか考えてない」などと言われたりする。芸術に興味も敬意もなくて当たり前だろう。

 

しかしそれも、役所の人たちだけ責められないのは、結局ごくごく一般の人たちの芸術に対する無理解がひどい、ということなんだろう。

 

芸術や芸術家に対する敬意が全く欠如している。

 

一連の騒ぎも、最終的にそこに問題があるように思っている。政治の問題は除外するとして。

 

・・・

 

なまじっか芸術監督なんてものになってしまったので、神戸の「イベント」でもこういうことになってしまう。

 

シンポジウムの中止は妥当だ。それは政治的にどうというよりも、芸術に特別な認識もなく業績もなく、単に神輿として担がれただけの人に何を語らせてるの、という問題があって、失敗したんだからそりゃだめでしょうと。事故があってもそれでもなお傾聴するべき見識がある、というような重みがないので、擁護のしようがない。そういう意味では、愛知でコケておいてよかったのかもしれない。

 

世の中には、「でも○○はできたんだから、それは功績でしょ」という意見があるのも見る。

 

そういうふうに認められる話は世の中にたくさんあることは重々承知の上で、もういいよ、もういいよ、という気にしかならない。