私はテレビを見ないのだが、漏れ伝わってくるニュースに触れると、いろいろ感想を持つことがある。

たとえば、子供に無理やり勉強させて東大に行かせ、大企業や中央の役所に勤めさせるとして、あるいは医者や弁護士にさせるとして、さてその子供は本当に幸せになるのだろうか。

もちろん、その子が極めて優秀で、大きな無理をしないのであればともかく、そうでないのであれば、ひどい場合には家庭内暴力をしてまで、東大に行かせて、それが本人の幸せになるのだろうか。

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つまらない地方都市に住んでいると、自然と高校の序列のようなものが耳に入る。あそこの学校はいい、その次はこれ、偏差値はこれくらい、というようなものだ。

もちろん、こんなものは人間を評価する際に直接的には何の役にも立たない。地域で一番の高校を出たからなんだというか。

ただ、その人のおおよその人物を知る指標に、その人が出た学校というのは役に立つのは間違いない。

たとえば、地元の友人に、偏差値60よりちょっと上の高校を出た女性がいるが、彼女は中学校の時全く勉強しなかった。

普段は寡黙だが話し出すと面白い彼女は、つまり相当に頭の出来がいいはずだというのは分かる。今、彼女はのんびりやっているが不幸そうにはとても見えない。荒波が押し寄せてもなんとかしてしまいそうだ。

あるいは別の友人は、全くの底辺校の高校を出た。小学校の時から勉強は全くしない。先日聞いたところでは、国語の試験は10点以上取ったことがないそうだ。

それで今、彼は理髪師として自分の店を構え、趣味に邁進する日々であり、早くに結婚して生まれた子供は立派に育っている。問題はなにもない。

なるほど、こいつの高校は底辺校かもしれないが、勉強しなかっただけで頭がいいんだろう、というのは分かる。

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もっとも、こういう例は特殊でもあって、それなりの学校を出た人は、やっぱりそれなりだ。

勉強だけがすべてじゃない、人間性が大事だと言う大人が少なくないし、それはそうだと思うが、単に勉強ができなかったことの言い訳として、自分に甘いからそういうことを言いたくなるだけだ、ということの方が普通だ。

勉強よりも人間性が、などと言う人の人間性が問題であったりするものだ。

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私は中学受験をして私立の学校に行ったんだけれども、受験勉強が嫌いだった私は親に相当の抵抗をした。勉強して何になるかと言って、脱走したこともある。

もっとも今は面白がりながら好きな勉強しているわけで皮肉なものだと思うが、「勉強して何の意味があるか」という気持ちは小学校の時からさして変わっていないところがある。

私の友人たちの姿を見て、あるいは漏れ伝わってくるニュースに触れるにつけ、その気持ちが刺激される。

確かに、せめて義務教育の範囲くらいはきっちり勉強したほうがいいんじゃないのかと思うけれど、現実には国語5点でも幸せな人生を送っているわけで、何とも言えない。

子供に無理に勉強させて、それでいい学校やいい職とされるものにありつけたとして、それが本人の幸せにつながるかどうかなんて分かりゃしないよと。