以前も書いたように、高校数学の必修範囲を検討するという話が出ると、私はわりに好意的に見るほうなのは書いたことがある(繰り返すが、文系人間の私は高校の時は数学が好きだった)。個人的にはもっと国語をやるべきだと思っている。国語がいい加減だと数学も理科も社会も何もできないからだ。国語がいい加減で、ろくに古文も漢文もやらないものだから、ほらご覧、新元号だって、、、というのは余計なことだった。

■ - 今日の雑談

 

ネットには大学の先生や、それなりに勉強した人が多いので、必修範囲の見直しのような議論に対して非常に批判が出る。

 

現実を見た場合、たとえば私が住む地域では、偏差値50近辺の高校に行く子供がどの程度中学数学ができるかというと、四則演算と、あとは本当に初歩的なものがちょっとできる程度で、方程式を立てることも1次関数もたいしてできなくても、入学試験には通る。

 

この場合は平均並みの高校と言っても下限かもしれないが、それでも、中学数学がまともにできない子供がだいたい平均並みと考えてよいのであって、これは大人でも同じことなのだろう。

 

私は、こういう子供たちが高校でなにを勉強するのか、大変に疑問だ。

 

しかも、こういう子供たちが大学に行きたがったりするわけであって、事実、大学に行けてしまう。

 

中学数学ができない人間が大学に行ってどうするのか、私には理解できない。

 

しかし、これが現実で、ことは数学に限った問題ではない。

 

本当に子供たちのことを考えるのであれば、こういう問題に大人がもっと向き合ってほしいと思う。

 

これは家庭の経済力の問題ですらない。なぜなら、人間の知性はおおよそDNAで決まってしまっていて、できる子供はほっておいてもできるし、できない子供はどれだけ資本投下してもできないという事実を今の日本の総理大臣が、とこれも余計なことだった。

 

余計なことは置いといて、現実の子供たちに向き合った時、大人は安易に「もっと勉強しろ」とは言えなくなる。もっと勉強したってできないものはできないのであって、にもかかわらず無理に子供に勉強させることは、単に無茶なストレスでしかなく、人間性と精神が捻じ曲がる結果しかもたらさないことは自明だからだ。

 

もっと真面目に、子供たちに向き合ってほしい。彼らの将来の幸せを考えてやって欲しい。私はそう、切に望む。