大学の先生たちが、天下りに怒っているのはよく分かる。役所から天下った人たちに支払われる給与で、若い人たちを何人も雇えるし、様々に善用できるからだ。

 

しかし、なぜ同程度に次の問題について怒らないのか、私には全く理解できない。

 

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森友・加計問題で明らかになったのは、私立学校だと十分にビジネスとして成立していて、そのためにはあらゆるコネや手段を使うし、それだけの利益が見込まれる、ということだと思う

 

有力な政治家と親交を保つために、年に1億の交際費を何年も使ってもペイできてしまう教育事業とはなんなのだろうか。

 

これが私には分からない。

 

最近も、吉本に教育事業として100億つっこむという話が出ていたが、それだけ聞くと確かに愚かを極めているわけだけれども、これも結局、いろんな形の公的援助・支援を前提にすれば儲けが出ると思われているから、だから吉本のような企業が参入する。

 

同じことは、高校の英語検定試験や大学入学試験をめぐるいざこざについても言えるのだろう。

 

別に教育事業が絶対にビジネスとして成立するべきではないとは言わない。教育者やそれに携わる人全員が仙人であるべきだ、とは思わない。

 

ただ、物には限度というものがあるはずだろう。

 

特に教育事業はそうそう大きな利益が出ないのが本来のはずで、にもかかわらず、政府行政とつるみさえすれば大きな利益が上がる、そのためにはなんでもするというのは全くおかしい。

 

森友・加計を筆頭にしたもろもろは、本来公教育に投下されるべきリソースが変な方に回されていることしか意味せず、大学の先生たちがよくこれだけ侮辱されて黙っていられるものだと私は思う。

 

もっとも、私は私立学校だけではなく、予備校や塾についてもかなり批判的な考えを持っているので、その分は差し引かなければならない。

 

しかし、子供たちのことを第一に考えるならば、今のような話が、つまり大人たちの一方的な都合で教育が事業となっているような現実は到底認められるはずがない。大事なのはカネだけで、子供の未来でもなんでもない。

 

それは、天下りもそうだし、その他のさまざまな問題についても同じだろう。

 

そういうことを、国立大学のプロフェッサーたちが真面目に考えたうえで、待遇の悪さを愚痴っているようには、到底見えない。