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現在の日本人の生きづらさというのは、何者かになろうとする・何者かであれとしいられる感覚からではないかな。

何者にもなれないとしてきちんと絶望すると楽になるのでは。

 

何者かになろうとするための「すべし」集だけでなくて、「べからず」集が多そうだ。

 

ただ、「絶望」はする必要はないのではないか。その「何者か」はなんでもないわけで、そこに希望を持つほうがおかしいことに気がつくかどうかが問題なので、絶望することはない。

 

なにか「こうしなければならない」「こうしてはいけない」というものを、一旦取っ払ってしまったらいいのに、と思うことが多い。

 

人は人、自分は自分。幸せのあり方は人それぞれ違う。

 

ただ、「自分らしく生きる」という日本語で指し示しているものが、たいてい内実のない、「こんなの素敵ぃ!」という類のことしか意味しないので私は好まない。

 

そうではなくて、一旦すべて取っ払ってみたら楽になりますよと。自分の素になるだけなので、絶望ではなく、もっと積極的な気持ちなのではないかと思う。

 

・・・

 

最近、性差や性の自己認識、同性カップルなどなどの問題で少数者の権利を守れという議論が非常に活発だが、私はちょっと距離を置くことにしている。私にはよく分からないし、正直に言えば、「そりゃあ、結婚するって男と女がやるもんじゃないの?生物的に同性では結婚とは言わんでしょう」とも思っている。(他方で、イタリアだと、同性愛傾向のある子供が学校でいじめられて自殺する例がよく報じられており、それは私も知っている)

 

だからというわけでもないが、憲法学者が、憲法第9条解釈改憲には堂々と反対しながら、憲法第24条の「両性の合意による婚姻」は同性婚も可能と主張したりすると、非常に呆れる。そこまでやるか。

 

この種の流れはもちろん世界的なものだけれども、これに対する反動の動きもある。

 

日本の場合、反動以前の部分があるように思うが、「少数派の人権を守る」のはいいとして、どうしてそういう議論が出てきたのかというところがきれいに抜けているのではないかと思う。だから、多数派が少数派を「守ってやる」という態度に出ているように見えて、そこが私の気にくわないところだ。

 

つまり、人は一人一人違う、という事実から議論を出発させないといけない。

 

私は性的にはマイノリティではないが、しかし別の面から見れば立派なマイノリティで、いろんな偏見にさらされてきている。それが嫌で随分回り道をした。

 

しかしこれは誰しもそうであって、それぞれにマイノリティの部分があるはずであり、つまり一人一人違う。あなたは自分のことを多数派だと思っているかもしれないが、それはとんでもない間違いだ。

 

みんな仲良く一緒、などと言うことはあり得ないのであり、幸せの形も人それぞれ違って当然だ。

 

「何者かになろうとする」「何者かであろうとする」ということは、ある種のモデルに自分を合わせようとすることだろう。モデルがあれば、その通りにやればいいので楽な面もあるが、モデルと自分は違うので同じようにならないのも当然だ。

 

だからモデル通りにやらないか、やるとしてもモデルと違っても構わないと自分を是認しないといけない。

 

マイノリティの人権保護も同じ文脈から出てくる議論のはずで、一人一人、違う存在であることをまず素直に認めようということだろう。人間らしく生きるとはそういうことだと、私は思っている。

 

そうすれば、もうちょっと楽になるんじゃないの、と声をかけたくなる人は、結構いそうである。