東京にいると、保守化が進行する時勢もよく分かったような気がした。

 

私が住んでいるような地方都市が保守的なのは、最初から知れていることであって、かつ高齢化も進んでいて、こういうタイプの保守化は分かりやすい。

 

また、全国的にこれはそうだと思うが、観光客としても労働者としても外国人が増え、こういう現実に対して各人各様に向き合った結果、では私たちは何者か、と問う場面が明らかに増えている。

 
それに一番うまく応えるのが明治以来のナショナリズムで、これと(今の)右派は親和性が高い。
 
同様の流れは他の先進国で感じられるわけで、日本も免れ得ない、ということだろう。
 
もちろん、この種のナショナリズムは、どうしても独りよがりになるので、乗り越えられねばならず、いずれ揺り戻しがあるとは思うものの(Brexitのてんやわんやを見て、他のヨーロッパ諸国のポピュリストたちがEUEUROからの離脱を言えなくなった、などという話はその典型的だろう)、注意は必要だ。
 
実際、そういう心理が金儲けの種になって、政治的傾向を問わず、無責任な言説の温床になっているわけだ。
 
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さらに東京という街の気分そのものに、「和」「日本」を軽薄に求める部分がないか。
 
「和」を強調したイベントや宣伝をよく見かけたが、表面的に「和」なるものを消費しているようにしか見えない。
 
あえて言えばコンプレックスのようなものを感じる。つまり東京には「日本の伝統」なるものがない、あったとしてもどう転んだって京都と奈良には勝てない(このあたり、京都の宣伝は雑誌の特集記事などを含め巧みだ)。
 
だから、「日本文化」の消費のされように根っこを感じない。「和」や「日本」を連呼すればするほど、作り物めいてくる。それは、名人上手がほとんど死に絶えた歌舞伎座で歌舞伎のようなものを演じて、これが日本の伝統でございと見せているのと似ている。
 
しかし、文化とか伝統とかいうものは、そういうものではないのではないだろうか。あるいは生活に密着したものであり、あるいは命がけで伝承・発展してきたものであって、表面的に消費していいものとはとても思われない。
 
こういったこと諸々のことがすべて保守化を加速化させるために機能しており、無論オリンピックはその最大の契機になっている。
 
 昔、初めて靖国神社を訪れたとき、近畿の神社仏閣に慣れた私は「なんだこれ」と思った記憶がある。ロンドンのようにブロンズ像が立っており、むやみに立派な石畳が敷かれている。私の知っている神社とはまるで違う。確かにそこにあるのは、明治時代に無理やりこしらえられた「日本文化」だった。
 
あんな作り物めいたものが「日本」だとしたら、こちらから御免蒙りたい。