https://twitter.com/pinetree1981/status/1080678519179403266

まともな研究者や学芸員なら「縄文のアニミズムの信仰から鳥獣戯画を経て北斎漫画、アニメーションに至るまで」という文言を見て「こういうトンデモには関わらないでおこう」となる。僕は研究内容から言って直接迷惑を被る。やだなー。>政府が進める「日本博」構想とは何か。 https://t.co/wxGR9uuhOo

— 松下哲也 (@pinetree1981) January 3, 2019 

 

私も気持ち悪いと感じるほうだが、しかしこれがなぜ気持ち悪いのか、ごく一般的には理解されないんじゃないかと思う。

 

リンクされている記事によると、

 津川座長は「日本博」を「世界最古の縄文土器を初め、仏像、 浮世絵、美術、伝統ある漆器、陶器、磁器の工芸、着物、盆栽、そして、縄文のアニミズムの信仰から鳥獣戯画を経て北斎漫画、アニメーションに至るまでの歴史的展示を行う」ものとして定義

したそうで、学校の社会の教科書レベルだと、ざっくり言って、だいたいこの筋書で教えられているはずではないか。美術の教科書ではどうなんだろうか。

 

だから、ごく一般的には何が気持ち悪いのか理解されなさそうだと私なぞは想像してしまうのだが、おそらく、教科書の記述がおかしい、あるいは新しい知見を反映していないという問題がある。

 

つまり、教科書が、学校教育そのものが、新たな「神話」を作り出していやしないかと、このtweetを見て私は非常に疑った。

 

その意味で、tweetされたような意見は、半ばよく理解できるけれども、半ば、批判の方向が違うのではと思う。

 

網野善彦は、7世紀後半になるまで「日本」はなかった、だから聖徳太子は「日本人」じゃない、なんで教科書では当たり前のように縄文時代が日本史の一部に入ってくるのか云々といった批判を、しつこいほどやっていて、これが網野の「日本論」の定番になっている。これに対して、当時、研究者の間では相当の批判というか呆れられたようなところもあったようだが、網野が指摘したかった問題が今になって出てきてしまっているようにしか見えない。

 

つまり、「日本」という国家についての観念が、十分に相対化されずに「日本人」に一般的に浸透してしまっており、ここに教育が大きく絡んでいる、それに手を貸したのが誰よりも研究者たちではなかったか、という問題だ。

 

網野の場合、高校の先生を長く勤めていた経験から教育現場をよく知っていて、だから例の「定番ネタ」のように非常に単純化した形で言い切ったのだろうし、それが研究者レベルでは雑すぎる言明であるため批判もでた。

 

ところが、研究者レベルでは雑な言明でも、一般レベルではそれくらいに単純化してしつこく言い続けないと浸透しないし、結局は浸透しなかった。そこで、上のような「日本美術史」のような形で、研究者サイドがしっぺ返しを食らってしまっている、のかもしれない。

 

・・・

 

ではどうすればよいか。

 

日本はこんなに素晴らしいものを生み出した!と、ただ自慢するのではない。その素晴らしい文物がどのように成立したか、日本列島の住民だけの力ではない、多方面の交流抜きにしてこれらのものはなかった、そういうふうに語って欲しいと思う。

 

マルクス主義者の網野は、「教科書をつくる会」が作った、政治的に非常に保守的な教科書について、左翼にありがちな批判はせず、保守派の歴史記述のほうがむしろ歴史の豊かさを閑却するものだという論調で批判した。

 

日本美術とその歴史についても、同じ議論が可能なはずだと私は思う。