国語教育、特に古文漢文不要論にどう対応するかという議論を見た。

 

私は文系のくせに国語が苦手で数学の方が好きだったし、学校の先生でもない。だから、専門家たちで難しいことは議論して欲しいと思っているが、私自身としては、現代日本語も、古文漢文も、教育する必要性は自明で、不要論が出ることそのものに面食らってしまうところがある。

 

というのも、日本人だから日本語ができて当たり前だとたいてい思われているが、実際のところははなはだ怪しいからだ。

 

これに気がついたのはネットの議論を見ていたときで、以下、国語が苦手な自分のことは棚に上げて言ってしまうが、読解能力が根本的に怪しい人が議論していたりするのはよく見る光景だ。そういう人は当然作文能力も怪しい。

 

これは、学歴や職歴はあまり関係がないらしくて、たとえば国立大学の教授クラスでも、専門の論文の読み書きはできるはずなのに、それ以外になるととんとダメになる場合があるように思う。これは訓練の結果、能力が偏ったということもあるだろうが、そもそもの日本語運用能力の問題がありそうで、つまり日本語でものを考えることが、専門分野のようにできないのだが、専門ではちゃんとできているので、そのために能力の偏りが自覚できていないらしい。

 

学者でこういうことがあるのだとすると、まして一般の大人や子供になると推して知るべし、だろう。

 

慣用句や熟語の類を何も知らないし、文法の知識もなく、それでどうやって読み書きができるのか、私には全く分からない。熟語どころか、小学校の漢字ですら、子供も大人もかなりあやふやな知識しかもっていない。

 

古文漢文の必要性も自明のはずで、現代日本語は古典に支えられて存在しているのであって、単に語彙の面から見ても古典抜きにして日本語を運用することは不可能なはずだが、現実には誰も古文も漢文もまともに勉強していない。

 

以前、ある金融関係者が、古文なんて勉強しても無駄だ、未然形プラス「ば」、已然形プラス「ば」の違いなんて、何に使うのか、と書いていたように記憶する。

 

私はこの人に、「なぜ急げば回れではなく、急がば回れと言うんですか、それとも貴方は急がば回れと言ったことがないんですか」と、聞いてみたくなった。

 

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ただ、これはかなり理想論の面があることも否めない。

 

たいていの人は、たいして日本語ができなくても十分に生活できている。私の住んでいる地域の自治会のおじさんは、夜間高校から某大手電機メーカーに長く勤め、それなりのポストについた人で親しくさせてもらっているが、この人は日本語が読めない。そのために、市が配布する文書が読めず、近所の心安い人に読解してもらっているそうである。

 

また、中学生レベルでも、国語の教科書が読めない生徒は少なくなく、そのために理科や社会でなにを言っているのか全く理解できないケースは決して珍しくない。(念の為に書くと、中学校の現代文は意外にレベルが高いと思う。私は日本語を勉強するイタリア人に、小学校高学年から中学レベルの日本語の文章をイタリア語で教えてやった経験があり、苦労したことがある。あれは結構難しいように思う)

 

こういう子供たちが社会に出ても生活はできるはずで、国語の教科書が読めなかった元・子供である多くの大人たちが現実に生活できているのだから、国語教育不要論・古典教育不要論が出てきても当然だろう。

 

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それに、今の国語の教科書がよく出来ているのかどうかもよく分からない。少なくとも古典に関して、義務教育レベルで教えられていることはあまりにも無内容ではないか。外国語学習と同様に、しっかりした文法と語彙を学ばないといけないのに、あまりにも量が少なく、中途半端で、あれを学ぶことに意味があるのかどうか、私には疑問だ。

 

 高校でどうせもっとしっかりやらないといけないんだから、古典文法くらいきっちり教えた方がよい。漢文も、あまりにもあれでは貧弱で、やるだけ時間の無駄だと言われても反論のしようがない。

 

・・・などと言い出すと、中学と高校のカリキュラムの全面見直しが必要だという話にもなりそうで、ここから先は専門家の議論を待つよりない、ということになる。

 

だいたいこういうことを書いてはいるものの、教科書がああなっているのも、先生の側の事情などなどを察することはできるので、やむを得ないのかなあとも思っている。難しい問題には違いない。

 

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では本当に国語教育に意味はないか、義務教育で古典を教えることに意味はないか。

 

上に書いた日本語の読み書きがかなり苦手なおじさんは、それでも一応は学校を出てから社会生活を全うしたのであって、何も勉強しなかったわけではない。

 

最初から何も教えられないということと、教えられたけれども自分は勉強しなかった、できなかった、する気にならなかったということには、雲泥の差があると私は思う。

 

私が見かけた、古典文法など勉強して何になるかとのたもうた人は、そこらのおっさんではなく、金融関係者で、それなりの教育を受けた、それなりの学歴の人のはずだ。その人にしてこの程度の認識だということ自体、国語教育があまりうまく行っていないことの証拠なのかもしれない。

 

言葉をたくさん知っているかどうか、言葉をよく理解しているかどうかは、世界を正しく認識して、筋道立てて考えるために絶対に必要な条件であって、それに資する現代日本語・古典の教育であって欲しい。そうすることで、子供たちを少しでも良い方向へと導いて欲しいと、私は念願している。