私が「正義の行きすぎ」「正義の暴走」論そのものが政治的に利用されていないかと非常に疑って警戒している理由は、たとえばこういう例を見てしまうからに他ならない。

「LGBTに生産性なし」杉田水脈の言論の機会まで奪ってどうする

田中秀臣の議論だが、杉田水脈には「賛同しかねるものが多い」としたうえで、

だからといって、雑誌やメディアで杉田氏の発言の機会を奪うべきだとは、みじんも思わない。その理由の一つは、ミルではないが、自分と全く違う考え方が、ひょっとしたら無視できないほど世の中に受け入れられている意見だとしたら、その意見と議論すべきだと思うからである。

ましてや、杉田氏を脅迫するなどもってのほかである。そのような脅迫の表明は、全く言論に値しない単なる犯罪行為である。報道によれば、実際に杉田氏に殺害を予告した人物もいたようである。それは、言葉の正しい意味での「自由への脅威」である。

(前略)他者から言論の機会を奪い、それを扇動することに加担することだけはすべきではない。そう常に考えている。

この議論そのものはおかしいとは思わないが、田中秀臣が過去に何をしたかというとこれである。

扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part128 「狂気の集団」と化したリフレ派とこれに支持を与えてきた人たち - 今日の雑談

財務事務次官の「指名手配書」をネット上にアップして、消費税増税を阻止するために個人攻撃をどんどんやろうと扇動した御仁が、同じ口で「扇動はいけない、議論をすべきだ」と言うのだ。

ちなみに、この時にははっきりと「手配書」を作った人間まで出てきていたことも改めて想起しておきたい。
https://twitter.com/SweetPiau2/status/381407316983037952/photo/1

田中秀臣には、「お前がそれを言うか」という言葉以外に出てこない。

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「正義の行きすぎ」「正義の暴走」論そのものはもっともだと思うことが多い。今回のような問題の場合、左派や左派に近い人たちが行き過ぎた行為には自重を求めるのは理解できる。

そもそも、「ネット〇〇派」を批判してきた私はむしろ、「正義の暴走」論に大いに賛成すべきなのだ。

ところが、現在流布している「正義の行きすぎ」「正義の暴走」論は、私が念頭に置いていることと違うのではないかと思われる時がある。

田中秀臣のように、政治的な理由で「正義の暴走」を論ずることを、私は是とするものではない。

政治的に敵対する人々の「正義の暴走」は批判するが、自分の「正義の暴走」は大いに肯定する、などということがあってはならない。

「正義の暴走」論は、そのような都合の良い使われ方がされてはいけないはずだ。

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この問題は田中秀臣ひとりに限らない。

たとえば、同じリフレ派だという理由で田中秀臣の「正義の暴走」を見逃しながら、杉田議員への「正義の暴走」を批判するなら、国会議員は言論の自由が高度に保証されねばならないと前提にしたうえでも、それは一体どうなのか。

特に田中の場合に明らかなように、これで自分を律する気はさらさらないのが明白であることが他にも大いにありうるわけで、随分おかしな話だと思う。

私はそこを疑問視している。