梅原猛のことを書いたのは、念頭に百田尚樹の「日本国紀」の問題があったからで、これについては呉座勇一が歴史学者のメンツを背負って批判している。

 

私は「日本国紀」を読んでないが、中身については言われている通りだろうし、そこは保守派もすでに擁護しきれなくなっており、「歴史物語として読め」「もっとひどいトンデモ本なんていくらでもあるじゃないか」云々といった程度にまで、防衛ラインを下げてきている。

 

しかし他方で、

 

https://twitter.com/tonton1965/status/1086617091333996547

小谷野敦あの子がほしいあの子じゃ分からん @tonton1965

梅原猛とか山折とかの「学者」のヨタ話ってのもあるし。

 

ということがある。ここでずっと考えるのだけれども、結論が全く出せないでいる。「日本国紀」はともかく、学者の「ヨタ話」の扱いをどうすればいいのだろうか。

 

・・・

 

もっとも、「日本国紀」の場合は、自分の書いたことはすべて事実だ云々といった売り文句を著者が言い切ってしまっており、そのために呉座のような歴史学者から批判が出る。

 

しかも、書店での扱いがほとんど村上春樹の新刊本と変わらないようにも見えるわけで、「そりゃ批判されるだろう」としか言いようがない。

 

 カス同然の「日本国紀」を批判するのはたやすいが、しかし他方で梅原猛は「現在では学会でも高い評価が」などと書かれてしまう現実が私は気になる。

 

生来のホラ吹きだった梅原がそういう扱いになるのは一応は大学の先生だったからで、その肩書きで随分下駄をはかせてもらった扱いになっている。

 

これでいいわけがないのであって、だから小谷野も、

https://twitter.com/tonton1965/status/1086618373335670784

小谷野敦あの子がほしいあの子じゃ分からん @tonton1965
呉座君が梅原猛を批判したら信用してあげるよ。

 

と、イヤミを書いている。国際日本文化研究センター助教である呉座勇一に、センターを創設した梅原猛に対する批判ができるのか、というわけだ。

 

・・・

 

話の落ちは特にない。

 

私は暇さえあれば本屋に行くのが好きな人間だが、書店に行って「日本国紀」のコーナーを見るたびに、呆れるやら悩むやら、という気分に陥る。