石原千秋「「こころ」で読みなおす漱石文学 大人になれなかった先生」のレビューにこういう表現があった。

本書を見て、心情の読み取りができなかったと言うよりは、

「心情の読み取り」の意味がよく分からない。客観的な対象としての「心情」というものがあって、それをこちらに取ってくる、ような表現に見える。テーブルの向こうにある塩をこっちに取ってきた、みたいだ。取ってきた「心情」はこっちに近づいてきただけで、客観的な対象のままで居続ける。

小説をそういうふうに読むのが普通かどうかは知らないが、私はそういうふうに読んでいるつもりはない。「心情」を読み「取る」ようには読まない。

私の場合は、小説世界に没入してしまうので、読み「取る」のではなくて、その世界に入りこんでしまう感じのほうが強い。

私は別に評論をしたいわけではなく、学校の試験問題を解きたいわけでもないので、そういう読み方でいいじゃないかと自分では思っている。

むしろ、心情を読み取ろうという読み方をして何が面白いのかと思う。登場人物の心情を読み「取る」ばかりだと、いつまでたっても他人事でしかない。自分のものにならない。

そう思って他のレビューを見ると、先生らしい人のレビューで、

歴史がどこかしこであまりに出過ぎて登場人物の心情が今一つ分かりづらい。

とある。「登場人物の心情」という言葉が出てきているのも、上のレビューと意味合いはあまり変わらないように思う。

小説は基本的には面白いから、楽しいから読むもので、うるさいことを言う必要はない。ただ、「心情」「読み取り」で検索すると、学校の試験のテクニックのようなものがズラズラと出てくる。小説の知的な理解ということなのかもしれないが、それで本当に小説が面白く読めるのだろうか。

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昔、イタリアのバールでイタリア語訳の「アエネイス」を読んでいたら、引退した大学の先生が覗き込んできて、1行か2行くらい、注釈をつけてくれたことがある。

「こうやって別の世界に入り込めるようにする訓練が大事なんだけれども、最近はそういう教育をしなくなってねぇ」

みたいなことを老先生は言っていた。

日本ではそんな訓練を施す教育は皆目やっていない。英語がその代替物になる可能性はあるけれども、そんなことは教科書で想定していない。古文漢文でさえ、無駄だと思われている現状だ。

話を戻すと、古典的なものに限らず、あるいは小説にかぎらず、どんなものでも、その世界に入り込むように読むのであって、知的に理解することももちろん重要だけれども、もっと体ごと入り込むものなのではないかという気はしている。

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もっとも、没入できる小説とそうでない小説があるのは確かで、私の場合は中学の時に「こころ」を初めて読んだが、その時は随分白けたような記憶がある。むやみに有名なこの小説に対する、私のひねくれた態度も一因ではあった。

先年、何十年かぶりに読んでみたら、面白かった。少なくとも途中まではびっくりするほど面白くて、こんなに完成度が高かったのかと感心したが、最後のあたりがよく分からなかった。また読むつもりをしているけれども、その時はまた違う感想になるだろう。

という具合で、没入できたりできなかったりする。これは誰でもそうで、人によって、また年齢によって条件が変わると、その小説への入り込み方も変わってくる。

ただ、心情の読み「取り」のような知的な理解は、没入の助けをしてくれるに相違ないけれども、知的な理解でとどまっていても、それはそれでつまらないのではないだろうか。