常々変だと思っていることの一つに、「日本人が世界を驚かせる」という類の話がある。たとえば白洲次郎GHQ相手にイギリス人顔負けの英語で一発言ってやった、というどこまで本当か全く真偽不明のエピソードが受ける、その心理が全く理解できない。

これは単に劣等意識の表れで、一発ドカンとやってやって、目にもの見せてくれる、本気を出せば俺たちもすごいんだぞ、なめんなよ、というところなんだろうが、一体それがどうしたんだろうか。

気分はスッキリするんだろうが、スッキリしたから何なのか。それは、真珠湾攻撃だって、気分だけはスッキリしたに相違ないのだ。

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こういう、劣等意識交じりの言説は、非常に閉鎖的で、自足してしまいやすい。

それでいいわけがない。

「世界を驚かせる」ではなくて、もっと謙虚に、世界から学ぶ、という姿勢でいたいものだと思う。もし、他者からの敬意を望むのであれば、そういう姿勢でいるほうが、よほど自然と敬意を得られるのではないか。

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ただ問題は、日本で「世界から学ぶ」と言った時に、しばしば自分や誰かにとって都合の良いことだけを学んで、「これが世界だ」と宣伝することになりやすい、ということがある。

それはネット上の言説でも明らかで、このブログでもニセ科学批判を再三再四やり玉に挙げてきたが、彼らの自己正当化には必ず、外国ではこうだ、という話が付きまとっていた。しかし、よくよく検討すると、はたして本当にそう言い切れるのかは疑問だ、という話もここに書いた。

あるいはリフレ派もそうだ。「ノーベル経済学賞をとった経済学者が言っている」という最強のお墨付きで喧伝するし、素人がそれに疑問を唱えるのは不可能だが、しかし経済学という学問の性格上、ある意見だけを過剰に信奉して、現実にこうしろ、というわけにはいかないのもまた事実だろう。

これと同様のことが、ありとあらゆる日常的な場面に見られるのであって、この「世界から学ぶ」という姿勢も、よくよく注意しないといけない。

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とはいえ、「世界を驚かせる」「一発やって見せて、鼻が高くなる日本人」という心性に、私は共感しない。

私の周りにも、世界の第一線で仕事をしている、本当に凄い人がいる。そういう人は、「世界を驚かせる」なんてつまらないことは全く考えていない。ただただ、仕事に邁進しているとそうなっているだけだ。そういうものであるべきだし、またそういうもののはずだろう。

劣等意識をこじらせたその他大勢の人々とは、まるで違う、とても話にならないのだ。