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先日、近所の小学校の運動会を見物した。その小学校は私が6年間通った小学校であるうえ、知人の子供たちも運動会に出ているので、毎年楽しみにしている。
新一年生のダンスというのが、興味深かった。正確にはダンスそのものではなくて、そこに使われている音楽の歌詞が面白いのだが、大略は次のようなものだったと思う。
初めてのことは、誰だって初心者
やってみよう チャレンジしよう
この歌詞を聞いて、私は大層呆れた。
学校の先生になっている人は、公務員のスーパー安定人生を考えて先生になっている場合がほとんどのはずで、つまり「間違えてもいいからやってみよう」というチャレンジ精神とかけ離れた人たちではないか。
だいたい、私がその小学校にいた時の運動会と、全く同じ音源で入場行進させている、というだけではない。私は近所だからよく聞こえるのだが、放送部員による毎朝の放送の一言一句、何十年も前と変わっていない、この変化のなさだ。
「おい!どのツラ下げて、そんな歌のダンスを子供にさせるんだ!
まず、大人のテメェがチャレンジしろよ!
ちょっとの勇気もない意気地なしが、子供にはなんっちゅう踊りを踊らせとるんだ、恥を知れ恥を!!!」
・・・とほとんど叫びそうになったけれども、やめておいた。
こういうことを私が言うと、冗談のように聞こえるし、私の方も半分お笑いとして語っている。新一年生のまだまだあどけない子供たちがかわいいからいいじゃないか、と言われてしまうかもしれない。しかし、私は本当のところは真顔で言っている。
表面的なかわいさで納得してしまうから、だから、危険なことは分かっているのにむやみに高いピラミッドを子供にやらせてみて、安っぽい「感動」を振りまいてみたりして、何が大事なことか、分からなくなってしまっているではないか。
表面的なことが大事だと錯覚しているから、だからいじめが起こっても表面を取り繕って責任問題にならないように無駄な努力をしたりする。
なにが「やってみよう」「チャレンジしてみよう」だ、本当に「チャレンジ」しなければならないことは押し潰しておいて、何を言っているのか。
言葉と現実が乖離して、それがおかしいことだということが分からなくなってしまっている。そう感じることがはなはだ多いし、それは小学校の運動会に限ったことではない。
大人も子供も、誰もそのことに疑問を感じなくなっていること、それがおかしいと私は強く思う。