扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part142

この himaginary さんの記事はとても面白いが、やはり白けた気分に非常になった。次の一節を目にしたときは特に。
経済学者が独裁者を支持する時 - himaginaryの日記

ここで重要なのは、経済学は道徳劇ではない、ということだ。時には悪人が良い政策を実施することがあり、その逆もある。そして経済分析の仕事は、誰が実施したかとは無関係に政策を評価することであり、またそうあるべきである。

たしかに、経済学者としてはそれでいいだろうし、またそうあるべきなんだろうと思う。

でも、それはあくまでも「経済学の世界」であるという限定を伴う場合においてのみだ。しかも、別にクルーグマンに限ったことではなく他の経済学者・エコノミストなどの専門家についても言えると思うが、その専門の範囲に常にとどまっているかというとそういうわけではないし、またその保証はどこにもない。むしろ話はその逆であって、専門の限定を常に飛び越えようとするし、また実際安易に飛び越えがちである。

同様の話は、何も経済学に限ったことではないのではないかと、これまでネットを眺めてきてそう思う。

そしてこの話は結局のところ、例のbewaadさんの呉越同舟論批判が効いてくるところだ。かえってこの大先生の無責任(あえてこういう言い方をするが)が明確になって来るだけなのではないかと思う。なぜならば、現実の政策として落とし込んで実行に移すのは経済学者ではなく、さらにある政策を遂行する人々は現実を相手にしているのであって、クルーグマンのように割り切った態度は絶対にとれないからだ。

もし、この一節が言い訳になるとクルーグマンが信じているのであれば、Reflection の欠如を強く感じるし、正直、

「あほちゃうか」

「そら、あんたはそれでええよ」

「無責任で結構でんな」

「そういうことなら、NYT のエッセーなんぞとっととやめて、学者の議論は学者の世界だけでやんなはれ」

という感想以上のものが出てこなかった。