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私は日ごろ、地方に住むごく普通の人たちと接している。私の住んでいるところでは、東大京大を出たような人はまずいない。そういう大学を出た人は、みな東京や大阪などの都会に、あるいは海外へ行ってしまう。
そうすると、いわゆる「エリート」とでも言うか、高学歴で経歴の優れた人たちの問題を考える。
私はこういう人たちに、ある種の倫理観を求めたいと思っている。
こういった人たちは、その他大勢よりもはるかに優秀で、能力見識ともに高いはずだ。
その他大勢にはない能力があるということは、それを利用する仕方を考えないといけない。
包丁は便利な道具であって、美味しい料理を作ることができる。しかし、使い方を誤ると、容易に人を殺すことができる。
人間の能力もそれと同じで、他人にはない高い能力を持つ者は、その能力の使い方をよく考えないといけない。
自分の包丁は、人を殺すためではなく、美味しいものを作るために利用しなければならない。では何が美味しいものなのだろうか。
そこで、倫理観のようなものが問われてくる、と私は思う。
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ところが現実はどうかというと、これはネット世界を見ていれば一目瞭然で、はっきり言えば自分の能力を自分のためにしか使う気がない人たちばかりだ。
そこでは、自分より「劣る」とみなされた他者は、単に使える道具・駒であったり、あるいはビジネス上の美味しいカモであったりする。早い話が、金儲けのことしか考えていない。
私は言いたい。あんたがたよりも知性も能力も劣ったその他大勢の人間たちのことを、あんたがたはなんだと思っているのか。
能力的には少々差があるかもしれないが、同じ人間じゃないか。
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ある種のエリート主義、貴族主義の現れと言われればそれまでだとけれども、現実としては各人、能力・知性・人格的に大きな差があるのは厳然たる事実であって、そのうえで優れた能力を持つ人はその他大勢に対するある種の責任を持っていると私は思う。
だから私は善導という言葉を使いたくなるのだが、そう言うと「アホどもを俺様が導いてやってやるのだ」という話にどうしてもなってしまう。私が言いたいのはそういうことではない。
同じ人間同士、手を取り合って生きていくべきなのに、優秀なはずの人たちが自分のことばかり考えていてそれでいいと思っているのか、と言いたいにすぎない。
もちろん、前回書いたように、優秀でかつ「いい人」が他者に過剰に尽くしてしまって自滅する場合が多々ある。
また、極めて知性的な人が、私のいるような地方にやむを得ない事情で帰ってくると、周囲とレベルがまるっきり合わなくて精神的に病んでしまうケースすらある。
だから一概には言えないのは言うまでもない。
ただ、都会から遠い世界にいると、そういうことをよく考える。