社会はサイエンスに対して「信」用・「信」頼しているにすぎないこと

社会がサイエンスを信頼している、ということの意味を分かっている人が、サイエンティストでもそんなに多くないんじゃないか。ましてそれ以外の人たちの理解は相当怪しいんじゃないか。

当たり前の話だが、サイエンティストでもない人間が、さらに言えばその分野の専門家以外の人間が、その分野について理解すると言うことはまず不可能だと断じて良い。

もちろん、説明されれば理解できることもあるだろうし、それが全部無駄だとは思わない。

とはいえ、どんなに説明されても、微妙なところは専門家にしか理解できないのであって、つまり専門外の人間は、たとえサイエンティストであっても理解は行き届かない。

したがって、私たちは、理解できないながらも、その専門家の言うことを、その分野のサイエンスを、信用・信頼するより他なくなる。その分野の専門家が A と言いました。「なるほど、私にはよく理解できないが、専門家がいうのであれば A なのでしょう」となるわけだ。

その信用・信頼には、別にロジカルな根拠があるわけでもなく、あるとしても不完全であって、どこまでいっても「私にはよく理解できないが」という但し書きがつけられる。

私たちは、サイエンスが提起する判断を、このように信用・信頼しているのであって、あえて言えば信用・信頼しているに「すぎない」。

もちろん、信用・信頼しないという選択肢もある。自分はそんなものは信じないと。

そうはいっても、日常生活において科学・技術のお世話になっておきながら「信じない」ってそりゃないだろう、という反論は可能であってもそれは理屈というものであって、自分はそれは信用しないと言明されてしまえば、それまで、ということになる。

そういう人をバカにすることは容易だけれども、しかしバカにしている人たちのやっていること言っていることが、サイエンスを信用しないと言明する人たちのちょうど対称になっているだけになっていることが、ほとんど理解されてない。

自分はサイエンスの判断を信用します、あなたはサイエンスの判断を信用しませんという形になってしまうとどうなるか。「信用しません」という人に百万言の説明をしたところで全くの無駄だ。何を言っても信じられないんだから。そもそもロジックの問題じゃない。

ロジックの問題だと思ってるから、だからなんでこれが分からないんだということになり、あるいはバカにし始める。

しかし、バカにする人にしたって、単にサイエンスの判断を信じているだけであって、それ以上のものは特にない。説明を読んでロジックを理解していると思っているなら、それはおめでたいというより他ない。

もちろん、サイエンスの判断を信用・信頼しないという人がサイエンスの判断を信用するという人をバカにするのも全く同じことであって、ここで結局、サイエンスの判断に対する「信」の問題がぶつかりあっているわけだ。

この問題に対する正しい回答は、「信」の問題だから相手の信念は尊重するしかない、ということになると思うが、それ以前に、問題を正しく設定できていない人があまりにも多すぎるように見受けられるのである。

以下、これは蛇足であるが、したがってサイエンスへの信用・信頼の源泉はサイエンティストの能力にあるわけであって、サイエンティストがウソを言ったり、正しくないことを発言したりすると、社会が有するサイエンスへの「信」は一挙に崩壊する。専門家やサイエンティストの社会に対する責任の重さということも、また指摘されなければならない。