私は、師にあたる人が女性で、その女性からよく殴られていたが、それでも私はなんともなかったし、ありがたい話だった。こういうことは、あることはある。

ただこれはかなり特別で、日野皓正の場合、仮に私と私の師匠のような関係を日野とその中学生が持っていたとしても、少なくとも公の演奏会の場で手を挙げるのは納得いかない。

たとえば、歌舞伎座で子役がいかにおかしいことをしたからと言って、その場で観衆に分かるように殴られるだろうか。

それよりも心配なのは、日野が教育だと言っていることだ。おそらく、これを安易にとる大人が極めて多い。

世の中には、しつけや教育と称して子供に平気で暴力をふるう大人が少なくないからだ。

私は、子供たちと接することが多いのだが、親から虐待を受けている子供が想像以上に多くてびっくりしている。

子供たちが受ける身体的な傷ももちろんだが、なにより精神的な傷が深く、これに対するケアや気遣いを慎重にしないといけない。普通に会話できるように、こちらが子供の目の高さまで下りて、嘘くさい説教や白々しい建前は言わないで、すべて開けっぴろげに話すことが大事なのではないかと常々感じている。

おそらく、それだけ深い傷を子供に与えた大人の言い分は、しつけ・教育云々といったもののはずで、いくら親子とはいえ、断固として認めがたいものがあり、ときに「親子の問題・家庭内の問題は警察は介入しない」「子供に人権なんかない」などと嘯く人間まで現実に存在しているので、やりきれない。

こういう大人が日野の言い分を盾に自己正当化を図るのが最も有害だ。

しかし、私が言いたいのはそれだけではなく、精神的に委縮し、傷を負った子供が成長して大人になった時にどうなるかということにも、もっと目を向けたいと思う。

私の身の回りには、精神的に病んでいる人も少なくないが、親などからの虐待の経験者であることがある。なかには、成人してからもなお、身体的・精神的・経済的に虐待を受けている場合すらあった。

子と親の関係は人間関係の基本の一つだと思うが、ここが歪むとすべてが歪んでしまいかねない。

精神病関係の一般書を読むと、親や子育ての問題になると過度に親に責任を感じさせないような書き方になっていることがある。それはそれでよく分かるが、私が見るところ実際はケースバイケースであって、場合によっては親に対して非常な怒りを感じる例もある。虐待を受けた人の人生を狂わせた親の責任をもっと問うべきではないか、失った時間は取り戻せないのだから死んでも償えないことを分かっているのか。そう言いたくなる場合も、ないわけではない。

そこでは、教育的指導とかしつけとか、まったく言い訳にならない。

自分はそんなのと違うと言っているそこのあなた、あなたが一番問題なのだ。

子供・成人に限らず、暴力によって他人に自分の言うことを聞かせるのは、何の意味もない。擁護することは許されないはずだ。