浜田宏一の『アメリカは日本経済の復活を知っている』のあとがきらしいが。
閲覧室|330 経済

2012年12月の本なので、時期としては第2次安倍内閣の発足のころと重なる。

私はこの本を読んでいないので知らなかったが、支援への感謝の中に「安倍晋三氏の厳父・晋太郎氏ゆかりの安倍フェロー」とあり、安倍家とのつながりが相当あるというのは分かる。

それはともかく。

 だがいまのような状態では、「自分の処方を三分のIでも聞いてもらえれば、日本経済はよみがえり、国民生活も向上するのに」と思いながら書くことになる。

このところ思うのは、結局、経済学者、あるいは経済学を勉強した人の言うことというのは、阪神タイガースファンのおっさんが居酒屋のテレビ中継で「わしに監督させろや」と言っているのと大同小異だったんだということだ。阪神ファンのおっさんと違うのは、このおっさんは「野球学」の学位を大学でとっていないが、経済学者・経済学を大学で勉強した人は学位をとっている、普通は大学に「野球学」はないが「経済学」はあるという、それだけの差だ。

これはリフレ派の面々のみならず、ネットで「自分は最初から金融緩和には批判的」「緊縮政策をやめて財政をもっと出せ」と言っている人たちについても同じことで、高みの見物でテレビ中継を見ながら選手交代などの監督の采配に文句をつけている酔っぱらったおっさんたちと、一体何が違うのだろう。

いや、自分は経済学を勉強したし、阪神ファンのおっさんのようないい加減なことを言っているのではない、根拠があることを言っている、と反論されるに違いない。それは確かにそうで、だから参考意見としては阪神ファンのおっさんの講釈よりはましかもしれない。

しかし私が言いたいのはそういうことではなくて、ある政策を決めるというのは、「こうすればいいのに」と岡目八目でウズウズしている状態で講釈をたれるのと、全く次元が異なる、ということが言いたいのだ。

バーナンキのような世界のトップの学者でさえ、中央銀行の総裁を実地でやってみて、理論と実践の差について思うところがあり、一応は謙虚に反省したようなことを言う。

なのに、なぜにそこらの経済学者風情が、あるいは大学で勉強して、あるいは仕事が金融経済関係だというだけの人が、国家財政・経済について分かったような講釈をたれることができるのか、私には全く理解できない。

その意味で、ネットでよく見る、あるいはリアルでも本や講演などで見る、経済学者・経済学を勉強した人の講釈は、居酒屋で「わしに監督やらせてくれや」と言っている阪神タイガースファンのおっさんと変わるところは何もない。

繰り返すが、バーナンキは、実際にセントラルバンカーをやってみて、その違いが初めてよく分かったのだ。逆に言えば、このレベルの学者ですら、あるいはこのレベルの学者だからこそ、セントラルバンカーとして政策決定を実地にやってみるまで、その違いを全く理解していなかった。

理論と実践の違いを忘れているという意味で、リフレ派だろうが財政拡張派だろうが主流派経済学だろうが、何派だろうが、みな同じだろう。それなら、居酒屋で酔っぱらった阪神タイガースファンのおっさんの話を聞くほうが、罪がなくて、全然ましではないか。