黙っていられないこと part9

私の素朴な疑問は実に単純で、


「だったら新潮文春の時にもっとちゃんと怒っておくべきだったんじゃないの?」ということです。もう、そこに尽きます。


それは法律家の先生たちもしかり、大屋先生なぞ、あの罵倒と同じことを、文春と新潮相手にきっちりやっておくべきだったのではないかと思います。


ちなみにだけれども、部落解放同盟の抗議声明によれば、記事の見出しは、
差別意識利用し扇動|部落解放同盟中央本部


文春は「橋下徹 42歳 書かれなかった『血脈』」
新潮は「『同和』『暴力団』の渦に呑まれた『橋下知事』出生の秘密」


だそうです。


そして両方とも「 私たちは、橋下徹・前大阪府知事の行政手腕やこれまでの業績を決して肯定的に評価するものではありませんが、今回の掲載記事および新聞広告が、部落差別の今日的な実態を全く無視し、個人の出生や出自を暴くなど、橋下徹・前大阪府知事を否定的に描くためだけに部落差別意識を利用し、部落差別を温存、助長、煽動する悪質な内容であることに強く抗議するとともに、貴社の見解を求めます」と締めくくっています。

・・・

法律家の先生たちも別に意図してこの種のアンフェアというか、二重基準っぽい振る舞いをやってるわけではないと思います。それは分かる。


あと、はっきり言えば橋下一人のことというよりも、もうちょっと広く問題を見た方がいいんだと思う。タイミングや対応の程度の差によるダブスタっぽい言明(意図しないとしても)が何を意味しているか、何を引き起こすのかと。


あるいは、個別的には客観的かつ公正に判断をしているとしても、全体としてみた場合、本当に公正な判断なり言動なりをやっていると言い切れるのか、という部分で。


たとえば、橋下の件一つとっても、ちょっと差があるだけでも、その差に政治的な意味が大きく出ています。


まして、橋下と他の人との比較においてはどうなんだろうか。あるいはもっと広く社会を見た時にどうなんだろう。橋下はともかく、他の差別を受けている社会的弱者たちに対しての判断はどうなんだろうか。


本当に公平な判断が行われていると言いきれるんだろうか。


もちろん、それを意識して考えなければならないのは、法律家の先生たちだけじゃなくて、一般の人たちです。一般の意識が法律やその運用などなどに反映されて行くのだということは言うまでもありません。


追記
そう思ってみたら、アサヒ叩いて済む話とも思えないよな(ボソッ)