菊池先生を知らないニセ科学批判の人がいる

ああ、これは面白いわ。念のために言っとくと、個人攻撃の意図はありませんよ。
「ニセ科学批判」批判のようなものについて: 異端的考察
社会学玄論の次の記事、
ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 : 社会学玄論
の感想文で、

え、私はニセ科学には批判的だがその菊池教授という人はこの記事を読むまで寡聞にして知らなかったのですが。

という一文が目に入ってずっこけたわけだ。


ニセ科学批判なのに菊池先生を知らないって、それはモグリだと言う人もいる。
練習問題を解題してみる。 - みつどん曇天日記

きくちさん、とはこのサイトを運営なさっている菊池誠先生*1のことで、一言で言えばニセ科学批判の第一人者です。
 引用先のkikulogは改めて説明するのも憚られる著名なサイト――「ニセ科学」と言う言葉を選択的に使用していてこのサイトを知らない人はモグリごく少数でしょう――ですが、ご存じない方に簡単に説明すると、ニセ科学を語る上で外せない総本山的なサイト、です。

ですって。


ま、正直言うと「第一人者」「総本山」という表現だけで、ニセ科学批判の人たちの間でいかに菊池先生に対する信頼があついかということを結論付けたっていいと思う。いや、T-3donさんに嫌みを言いたいんじゃなくて。正直で率直な表現だから利用させてもらうだけで、他の人も大して認識はかわりゃしないと思う。つまり、菊池先生は批判できる対象でなくなってるんじゃないですか。


それで。

では海外におけるニセ科学批判がどうなってしまうのか、という単純な問題がある。

ニセ科学」「疑似科学」という概念そのものが、日本と外国で違う。つまり、外国の「疑似科学批判」はオカルト批判超常現象批判も入る。でも「ニセ科学批判」は、対象が科学分野限定。たまにオカルトに言及しても、中心じゃない。


だから、アメリカのCSIと並ぶのは日本のJapan Skepticsだけど、ニセ科学批判はまた別。
Japan Skeptics - Wikipedia


こういう「ニセ科学」という概念を作ったのは菊池先生だ、と言ってしまうと異論があるのは知っている。
PSJ渋谷研究所X: 「ニセ科学」と言い出したのは菊池誠ではない【グラフを追記】

ひょっとすると菊池くんが再定義した、ということは言えるのかもしれない。けれども、それもおそらくは独力ではなく、apjさん(天羽優子さん)や、たざきさん(田崎晴明さん)、こなみさん(小波秀雄さん)、左巻健男さんたちとの議論のなかで再定義されていった、ということではないか。まったくの想像だけど、特に天羽さんとの議論が大きかったんじゃないか、なんてぼくは思ってる。

ということなんだろうと思うけど、でも「再定義」であるとしても、本人も一応こう書いてあるし、
ニセ科学入門

 なお、同様の文脈ではむ しろ「疑似科学」という言葉のほうが広く使われている。敢えてその言葉を避けて 「ニセ科学」と呼ぶのは、文脈によっては「疑似科学」という言葉が褒め言葉になる からである。(略)「ニセ」という言葉は否定的な意味合いを強く含むので、こちらを採用する。私自身、「疑似科学」と呼んでいた時期もあるのだが、上述の理由 で違和感がつきまとうため、最近は「ニセ」で統一している。この用法はマイクル・ シャーマーの著書の邦題に倣ったものである。

かつ「疑似科学」という言葉がよく使われるとしても中身は「ニセ科学」であることは少なくない。


だから日本語で「ニセ科学」「疑似科学」という言葉を使った瞬間に、それなりに菊池先生の影響を受けちゃってる。


一般の菊池先生に対する認識、「ニセ科学」概念、あとメディアへの露出頻度を考えても菊池先生が中心だし。


で、この「ニセ科学」概念が日本のネットではうまく利いたというか、利きすぎた。それが問題だったというのが、僕の見方。



二つ目。

第二に、こうした「陰謀」論は被害妄想に陥っている人がよく犯す過ちだが、それはそもそも一教授にすぎない菊池教授にそんな組織能力などあるわけないということを考えればわかるだろう。ニセ科学批判の本はいろいろ出ているわけだし、論拠も程度もバラバラである。どこが一枚岩なのだろうか。

これ、ネット上の緩いつながりというか「コミュニティ」を構成する人は錯覚するものらしい。組織能力つって、指揮命令系統はいらない。必要なのは、「煽り能力」で、それである言説を信じる人たちが勝手にまとまりながら言いたい放題言いだすもんだ。そういう光景ははてサ・ネトウヨで散々見てきた。


ニセ科学批判も基本は同じ。いま菊池先生についていってる人たちは、しっかり煽られてるんでないの。「第一人者」だそうですから。


で、ここで話がねじれるから厄介になる。菊池先生が無茶言ってるの、ちゃんと認識されてない気配が濃厚で、そこまで分かって付いてきているのかどうかが、よく分からない。「一枚岩に見えない」というのは、その辺がからむ。


そのうえで、ニセ科学批判の中で差が出ることのひとつは、大きく言って、たとえば、科学の問題として見るか社会問題として見るかで、重心の置き方が違うというのがあると思う。僕は以前、学問か運動か、どっちかにしてくれと書いたけども。で、これって最初のころから問題だったんじゃないの。きっと。



菊池先生の最初の問題意識としては、オウム事件が大きかった。1996年の資料。
pseudo science

 まがりなりにも科学の現場で生活しているので、オウム真理教の事件にはいろいろな意味で考えさせられた。理科系の大学教育を受けたり、場合によっては大学院まで出たような人たちが、空中浮揚だとか地震兵器だとかの与太話を真に受けて信じちゃったのはいったいどういうわけなんだか。表向き科学を学んだことにはなっていても、その実、科学的思考法は身につけなかったということだろうな。

オウムにはまった「理系」の人たちが本当に「科学的思考法」を身につけてなかったのかどうかはともかく、最初から社会問題を念頭に置いている。それがこういう発言につながる。
柘植明さんのコメントへの返信: 技術系サラリーマンの交差点

ニセ科学」というカテゴリーの必要性について言うと、「ニセ科学」を社会の病理だと考えるからです。(略)

Posted by: きくち | 2007.08.22 at 12:39 PM

ま、菊池先生の物の考え方の癖みたいなものが反映してるんでしょう。で、この発想は「ニセ科学」概念の必要性にかかわる問題なのに、ちゃんと理解されてない。
論宅氏の事実誤認について - あらきけいすけの雑記帳

論宅くん、「敵・味方」のような二分法思考な安直なステートメントは不愉快なのでやめたまえ!(安直な二分法が「ニセ科学批判」の最も嫌うところの一つであることを君も知っておろう。)君のアタマの中は「白」と「黒」の1ビットしか表現力がないのか!

ニセ科学批判」という言葉を使った瞬間、実は「敵・味方」に分けて敵を潰すという話に乗ってるんだけど(なにせ「社会の病理」だから)、そこが理解されてない。いや、誤解が悪いと言ってるのではなくて、見かけが「科学」なのでこの種の解釈を変にまじめにしてる人は少なくないと思う。で、本来こういう議論はニセ科学批判とは別物のはずで、それでもいっしょになってしまうのは、単にニセ科学批判が「運動」なので肝心なところさえ合意できればあとはなんだっていいという政治的判断による(逆にいえば、肝心なところで合意できない人間は出ていくか攻撃される)。これが、ニセ科学批判が一枚岩に見えないのに、実際は党派的になってしまっている一つの理由。閑話休題



とはいえ、最初は「と学会」レベルどまりで、それくらいならまだよかった。同じ資料にも「と学会」への言及があるし。

と学会の本は擬似科学否定を目的にしたものではないので、擬似科学以外にもいろいろと笑える話が取り上げられています。

あるいは、某所にあったコメントとか。
http://www.cml-office.org/psbbs/general/tree.php?n=36

ニセ科学批判そのものも、きくちさんが「趣味で批判していた時代に戻りたい」と愚痴られる事があるように「と学会」とかを中心としたマニアックな批判で有ったわけです。

たしかに、趣味で批判している分には「科学の問題」と「社会問題」をごっちゃにしていても、笑ってバカにするだけだからまだいい。
(ちなみに、「と学会」に対する次のような批判は、ニセ科学批判と併せて考えると非常に示唆的だと思われる。
と学会的な態度のここが好きじゃない (唐沢俊一&山本弘) - Togetter


でも「と学会」では物足りなくて、マジでやりだすと厄介だ。もしもマジでやるなら、
Daily Life:疑似科学と専門職倫理

害があるかどうかを批判が許容される条件に入れているが、それだと結局社会的影響について科学者が判断することになるのではないか

という問題をきちんと解決しなきゃいけないから。これ、たしか天羽先生は「社会人としてやれ」と言ってたと思う。分かるんだけど問題はそんな簡単じゃなくて、もし学者がちゃんとするなら、なんでその「ニセ科学」を批判しなきゃならないのかとか、社会的にどうなのかとか、相当難しい問題をクリアする必要がある。伊勢田先生が発表で質問を受けたのはそういうことだと思う。それに対する伊勢田先生の答えもちょっとなーというのは、もう書いた。
伊勢田哲治先生の資料 - 今日の雑談


菊池先生は、「優先順位問題」と称して逃げた(ついでに「優先順位問題」もニセ科学批判の人たちでは共通の了解事項になってるな)。つまり、リソースに限界があるから、自分がやれるものをやっているだけだと開き直っただけ。そのテーマを選択した理由にもなにもなってない。なのに、「それは優先順位問題だから検索して調べてくれ」とか言って鵜呑みしてる人がいるわけで。菊池先生に対して批判が働かない状況は、やっぱりあるようである。


思うに、ここは「科学の問題」として割り切ってしまういいチャンスだったかもしれない。手続き上の問題などを大学の先生が純粋に取り扱ってるだけなら、たとえ「社会問題」への関心が底流にあっても、「優先順位問題」で逃げきれる。そうすることで、科学ってなんだというのを一般に分かりやすく伝えるんですという名分が立つ。それで何も問題はないのだけど、でもそうじゃなくて、やっぱり「社会問題」扱いにしたいんだろうね。



そうなると、「社会悪は許されない」という大きな社会正義に、「科学的に間違っている」という「正しさ」への確信が加わって、疑問を持つことがなくなる。社会悪を許さないニセ科学批判は、社会にとって有用である。だから菊池先生は
「ニセ科学」関連・本当の最終記事: 技術系サラリーマンの交差点

(略)
危機感を共有できないのは結構。しかし、それならなぜ沈黙を守らないのか。

「そんなことは大事ではない」とことさらに言うことが、いったいどのような意味を持つか、考えられるとよいのではないでしょうか。

Posted by: きくち | 2007.09.06 at 01:23 AM

と言いだすし、
「ニセ科学批判」批判 FAQ - ニセ科学批判まとめ %作成中 - アットウィキ

ただあまり興味がないのなら、わざわざ批判活動を邪魔するようなことはしないでおいて欲しい。

と、ケロッとしてニセ科学批判の人が書いちゃう。で、この空気が共有されてるようで。
結果としての権威とプロセスとしての権威 - blupyの日記

私がそれを知ってげんなりしたのがこの問題水伝は「言語の恣意性」の観点から検証不可能とはいえない(3/01追加) - blupyの日記この議論自体もあれだったど、さらにとにかく水伝を批判することが重要であって、それを邪魔するやつは敵だ的な奴が出てきたのは、驚きでしたね。

最後の例は、ニセ科学批判を理解してないからそういう反応になるんでなくて、菊池先生の言ってることに忠実に従うと理の当然でそうなるという話。全部つながってる。つまり、「社会問題」への意識が捨てきれないのがネックになってるから、だから「邪魔するな」が「邪魔する奴も敵だ」になると。分かりやすい。



たぶん「社会問題」と「科学の問題」を最初からきちんと分けるべきだったんでしょう。そうすれば、ニセ科学批判は科学の手続きの問題だと言ってた人もその建前と実態が一致して問題なかったろうし。でも、「社会問題」への志向が留金を外してしまってる。


「『ニセ科学』という悪は許せないという社会正義」と「科学的に間違っていることを間違っていると言ってるだけという開き直り」で自分たちを正当化してしまったから、こうなると無敵だ。圧倒的に正しいんだから。
(ついでながら、「一枚岩に見えない」というのは、「都合のよい自己正当化の論理を複数持っている(その論理の間での整合性が吟味されていない)」党派だということでもあって、ずいぶん前、議論しながらかなり奇妙に見えたことを付け加えておく)


ネットユーザーが「正しい」ことに乗りたがってみんなで仲良くボコりたがるのは、ネトウヨはてサその他もろもろで証明済み。しかも、仲間内には甘い、批判には詭弁を使ってでも自己正当化して疑わないと、彼等と同じことをニセ科学批判もやっている。これが、僕の言うニセ科学批判のネット右翼化。


「社会問題」と「科学の問題」に最初から二股をかけて曖昧にしたまま来てるからこうなる。みんなこうだとは言わないにしろ、大本がダメでどうにもならない。


でも、ニセ科学批判の人たちはこのダメさに気がつかない。なぜか。煽り手が立派な大学教授たちでありプロの科学者であって、対象に「科学の問題」を扱ってるから。対象を「科学」に限定したことが、ここで利いてくる。


とはいえ片方に「社会問題」志向があるので、「科学」というのは見かけだけで、いわば釣り針に付けたエサにしか結果的になってない。。。人のことは言えない。僕も最初は釣られてしまい、ニセ科学批判に賛成した側にいた。



釣り餌というのはつまり、対象を「科学」に限定してやると、一見中立風なので日本人は普通に乗りやすいし、分かりやすい形になる。その後ろにある背景はバッサリ切り落とされる、、、普通は。いや、語ったってずいぶんバランスを失してるように見える。


海外の疑似科学批判がオカルトや超常現象を対象とするのは、それが無神論者のプロテストや政治的意味があるからだけど、日本はそうじゃない。社会環境も違う。だから、両者同じように「ホメオパシーは社会悪だ」と言っても、こちらの読み方は変わらざるを得ない。
(こないだもCSIの機関紙Skeptical InquiryのTwitterでくだらないネタをつぶやいてた。

Jesus Appears in Bucket of Pizza Sauce!!!

http://twitter.com/SkeptInquiry/status/9881348385
ようはCSIもこういうくだらないネタで喜ぶ人たちの集まりだってこと)


ところが「科学」に対象を限定しても、「社会問題」志向を捨てないので妥協がなくなる。なにせ「ニセ科学は社会の病理」だから。そうなると、、、毎度おなじみ池内御大の演説。
Abstract for Symposium at JPS meeting Sprin 06 (Ikeuchi)


妥協がないから、池内御大の演説を敷衍すると、合理主義信者が社会改革を目指してるだけではないか、、、という、普通のニセ科学批判の人には十分に理解されてない結論が出てくるわけだ。ただのファッショになりかねないぞというのは毎度のホラだけど、理屈で言うとそうなっちゃう。「俺らを邪魔するな」というのは、見事にその発露で、ホラと言えどもただのホラでもないわけ。


だからはてブでボコってヒンシュクを買ってたのは、決して「態度の問題だ」では済まされない話なんだ。つまり、「ニセ科学」概念を科学に限定したうえで「社会問題」志向で突っ走ったことの悪影響などのもろもろの要素、そういうことの表れだから。ネットで騒いでるだけだから、まあね、という次元の話。


普通はそんなことまで考えない。ただの善意だ。これが困る。良かれと思ってやってることに、実は根本的な問題があるんだから。なんのことはない、ニセ科学批判のやってることがニセ科学と似てきてしまう。



自分は違うと思う人は少なくないだろうが、もし良識的になりたければ、真っ先に手を切らなきゃならないモノが、実は「ニセ科学批判」そのものなんだというのが皮肉な現実なんだな。「科学の問題」として扱いたいなら「ニセ科学批判」の看板は使わないほうがいい。変な誤解を生む。「社会問題」として扱いたいんだったら、「科学」の見かけで人を釣るんじゃない。


いや、「ニセ科学批判」をやるなというよりも、きちんと立場を明確に分かりやすく示したほうがいいとも僕は言っている。「団体を作って活動しろ」というのがそう。外国の疑似科学批判団体は懐疑主義で路線対立して内ゲバしてたそうだけど(ニセ科学批判の内ゲバ - 今日の雑談)、そのほうがよほど分かりやすくて結構でしょう。それに、本気で現実を変えたいなら、団体を作るしかないし。ネットでわめいて何になるっての。



普通の人は善意かもしれんけど、善意で済まない問題が「ニセ科学批判」にはあって、それはネット右翼やはてサがブコメで「敵」を嘲笑したり、ちょっと前なら炎上騒ぎを起こしてたのと、まーったく同じってことだ。天羽先生なんて、毎度こりもせずに堂々と突撃する。あれをおかしいと思わなきゃ。おかしいと思ったら、なんであんなことになるのか疑問におもう、それが“critical thinking”というもののはずでしょう。
懐疑論者とは何か - 今日の雑談

Wunderによれば、GWUPには右上“belief・critical thinking”の人間はいないが、しかし会員のうちのかなりが左下“unbelief・dogmatism”の人だろうという。

この点は洋の東西を問わないらしい。“critical thinking”を口で言いながら、内実はただの“dogmatist”だったって、ね。


ま、「ニセ科学は社会の病理」とまでいうなら、こういうネットの運動に無反省にのっかってしまうのはやめましょうというのが結論。炎上騒ぎも、ブコメの嘲笑も、同じように病的なんだから。



最後に念のために繰り返すと、個人攻撃の意図はないですよ。菊池先生を知らないニセ科学批判の人がいたから、自分の考えをまとめてみるのにちょうどよかったというだけだから。