ネット○○派 part33 小異を捨てて大同につくの政治性

とはいっても、天羽先生は「水商売ウォッチング」なんてやってるから、消費者問題を建前に掲げて「ニセ科学批判だ」と吠えることに自分で疑問を感じないのは分からんでもない。


問題は、そこで「ニセ科学は社会の病理」という立場とどうやって共存できるのか、ということなんだな。
柘植明さんのコメントへの返信: 技術系サラリーマンの交差点

ニセ科学」というカテゴリーの必要性について言うと、「ニセ科学」を社会の病理だと考えるからです。(略)
Posted by: きくち | 2007.08.22 at 12:39 PM

「ニセ科学」関連・本当の最終記事: 技術系サラリーマンの交差点

(略)
危機感を共有できないのは結構。しかし、それならなぜ沈黙を守らないのか。
「そんなことは大事ではない」とことさらに言うことが、いったいどのような意味を持つか、考えられるとよいのではないでしょうか。
Posted by: きくち | 2007.09.06 at 01:23 AM

菊池先生も「共感できないならお前は黙れ」とネット右翼やってんので、もうどうしようもないというのは再三言ってきたとおりだが、ここで重要なのは天羽先生の立場とまるっきり違うということなんだな。


つまり、ニセ科学を「消費者問題」としてとらえるならば「害」「被害」を中心に考えるべきであって、他方で「ニセ科学は社会の病理」とするならば、「科学的・合理主義的なものの考え方が社会にとって重要で、そうでないものがはびこるのは社会の病理」と、より抽象的かつ一般的な、、、ようは「ものの考え方」のほうに重心を置いている。


基本的に後者のほうが中心だと考えられるべきなのは田崎先生の水伝の扱い方を見てもそう、池内了御大の大ボラ演説も基本はそういう論調。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/events/JPSsymposium0306/ikeuchi.html

現代社会には非合理性(戦争、テロ、飢餓、核兵器、南北問題、環境問題など)が溢れ、非理性的・非合理的生き方(政治や官僚の腐敗、弱肉強食の企業社会、勝ち組と負け組の大きな格差など)が罷り通っているが、それに対して大人社会は声を挙げることもなく従順に従っている。社会に認知されている疑似科学(サイコセラピー、自己啓発セミナー、文部科学省の心の教育など)も大きな顔をして蔓延っている。大人達は現代の非合理になす術もなく流されているように見えるのだ。それに対して抗議をしようなんて誰も考えていない、そう若者達が考えるのも無理ないことと言えるかもしれない。

また、心ある科学者は、バカな奴が陥るバカな所業として放っておかず、懐疑主義を広めるのに力を尽くすことが必要ではないかと思っている。

この合理主義崇拝ぶりと社会問題との絡め方の異常さはとりあえずここでは置いておくとして、消費者問題としてのニセ科学というのはもちろんあってもいいとはいいながら、ニセ科学批判では二次的なものでしかないはず、なんだな。たぶん、外国の懐疑主義者団体もそうでしょ。


しかも、上述のように、科学の立場に限定している以上、消費者問題を強調する事は難しいしなにより、
伊勢田哲治先生の資料 - 今日の雑談

Daily Life:疑似科学と専門職倫理

ID論などは科学というより思想に分類してもよさそうなものだが、「思想」ととらえるか「科学」ととらえるかでとるべき態度が違ってくるものなのか→専門職として科学を考えるとき、「科学」というラベルが濫用されないことは大事。

害があるかどうかを批判が許容される条件に入れているが、それだと結局社会的影響について科学者が判断することになるのではないか→科学に対するクレジットの不当な取得という場合にはそういう判断に踏み込まなくてもよい

とくに、後の件については問題で「社会的影響」を見積もらないと、批判することによる利益とリスクのバランスが見通せない。それこそ優先順位にも関わる問題だから、「そういう判断に踏み込まなくてもよい」はずがない。「クレジットの不当な取得」みたいな一般論では、意味ないわけで。菊池先生が「優先順位問題」として開き直ったのも、このあたりで行き詰ったのかもしれないね。

したがって、この二つを対等なものとして共存させることは、基本的に無理なんですわ。


・・・


それでもなお、この異質なものが「ニセ科学批判」として一緒にあるような感じがするのは至極単純。味方だから違いにはお口にチャックしてるだけ。すなわち、「小異を捨てて大同をつく」をやってるのであって、なんのことはない、これはただの政治なんだよな。
http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20100818/p1

大同団結せよ、との呼びかけは、数多くの賛同者がいるという状況を現出させるために政治的リソースをよこせ、ということと同じです。

ニセ科学批判は科学者が科学のふりして「なんちゃって政治運動」やってるのだって見方もできる。それこそ「科学」というラベルの濫用、以外の何物でもない。ニセ科学批判のニセ科学化。


だから言ってる。ニセ科学批判を軽々しく信用しなさんな、新聞記者の方々。