社会と自由

ホメオパシー信者を言い負かす法 - 今日の雑談
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yottoki (略)『そうやって信者を笑って優越感を感じたいんだね』いやー、自分は結構な率でループするところに絶望を感じた。

気持ちは分かりますけどね。一つは、この種の議論が無駄なの、最初から分かってるのだから、絶望する前に議論をやめましょうと。ま、議論もいいんだけど程度問題で。無駄な期待は抱かないほうが身のためです。


も一つは、あちらはホメオパシーが普及してるので「プラセボでも利くからええやん」で終わってる人が多いんでしょう。これを論破するのがしんどいから、あんな図でも作ってバカにしてないとプライドが許さないんだと思う。

Mochimasa ホメオパシー 確かにバカにするのは良くない。しかし、ホメオパシーが公衆衛生上の問題を孕んでいる上、ほとんど誰にでも間違いを正す動悸ある。

これ、ホメオパシー批判の一典型として取り上げますね。個人攻撃のつもりはないです。他の人もこの理屈を信じてるだろうから、あくまで一典型。


まず、前半については、「バカにすること」の態度それ自体を問題にしてるんでなくて、そういう態度に至る理屈や背景を僕は問題にしています。


で、より重要なのは後半の理屈ですが、これが錯覚なんです。なぜなら、個々人の次元ならこの理屈は理解できても、社会全体として考えたら、そんな簡単な話にならないから。


というのも「公衆衛生上の問題」は、社会全体として現実にどの程度の「問題」があるか、そこを考えないと「ほとんど誰にでも間違いを正す動機」があると言えるのかどうか、理屈が成立しないんです。僕がずーっと問題視しているのは、そこ。個々人レベルなら分かるけど、「公衆衛生」と言って正当化してしまうところに論理の飛躍がある。


一時期、ホメオパシーはカルトだとかインフルエンザがとか言い出す人がいたのはそこの理屈を通したいからなんだけど、うまくいかない。「原理的に反科学だ」というのも、他にいくらでも反科学な思想の持ち主はいるにもかかわらず、社会として見ると現実は大して困ってないわけです。落ち着いて考えたら、そんなに重大な問題があるなら広く受け入れられてるヨーロッパでとっくの昔に禁止されてなきゃおかしいし。


僕は「ニセ科学批判の論理がどう飛躍してるか」を表す具体例としてホメオパシーを取り上げてるけれど、一般に日本で「ニセ科学批判」をやる人たちはこの飛躍した理屈を信じていて、すごく変に見える。



いま、英国反ホメオパシー界隈で話題なのは、先の委員会報告書について政府への嘆願の署名が1000人をこえたって話なんですが。
http://petitions.number10.gov.uk/nohomeopathy/


この話が難しいのは、担当の閣外大臣はホメオパシープラセボ効果にすぎないことを承知しているのに、なんで国費を使って“personal choice”を患者のために確保するのかという矛盾を、政府としてどうやって政治的に処理するかという話だから。
Page cannot be found - UK Parliament


で、これは難しい話だけど税金の使い道の話なので、そういう次元での理屈は立てられる。


でも、この政治的問題は、別の側面の問題も象徴的に表わしているように見える。


仮に、ホメオパシーに予算がつかなくなったとしても、英国社会に十分に普及しているようだから、すぐに「追放」されないでしょうし、ホメオパシー受容の歴史のない日本と違って支持者も多数いるでしょう。


その場合、科学的裏付けがないホメオパシーを、社会としていかに受け入れるのかという問題になる。つまり、社会における個人の自由と公共の問題になるんだと思う。O'Brien閣外大臣が繰り返し言ってるのは、たぶんそこだ。


そうすると、日本のネットでホメオパシー批判やニセ科学批判の人たちが考える程、この問題は容易でない。なぜなら、現実として、ホメオパシーの存在が絶対に許されないと断定できるほど「公衆衛生上の問題」が重大になってるとはとても思えないから。


このあたりの難しい議論を、批判してる人たちは飛ばしてるか、安易に考えてる。あるいは、ただ批判するだけならまだしも、どうも危機感を過剰にもって潰しにかかってるような煽りをしてる印象が強い。繰り返すと、個々人レベルなら分かるけど、社会正義を旗印にするのは危ない。


・・・


まあ、一般には「ホメオパシーはけしからん」一筋でもいいのかな、という気もする。こんな難しい問題は、政治家なり官僚が考えりゃいいんだから。


でも、容易でない問題だと知った上で開き直るのと、知らないで正義を語るのでは、やはり違う。同じ批判でも調子が変わる。


ホメオパシーはけしからん」と考える人たちは、この難しい問題のために、もう一度立ち止まってみるべきだと僕は思う。信じられている論理は、みかけよりも怖い論理です。