ネット○○派 part37 ニセ科学批判に必要なのは「科学哲学」ではなくて、「自分には理解できない他人と共存しようとする意志と良識」

はてなブックマーク - ネットに蔓延する科学教を考える : 情報学ブログ
元のエントリは、結論はいいんだけれど、過程で考えすぎだと思う。そっちいくとニセ科学批判のわなにはまってしまうぞ、みたいな。それより問題は、「科学は方法論だ」「科学は実証的だ」を素朴に信じる人たちがやっぱりいるので、もう一度書いておきたい。


科学は方法論だ、その通り。実証的だ、その通り。だから、社会において科学と科学による判断は尊重されるべきには違いない。


でも、だからといって必ず科学の言うことを聞けということにはならない。


はてブを見ると、単なる「利用者への注意喚起」や「誤りの指摘」にとどまらず、「ニセ科学の排除」を明らかに意図してるとしか思われないわけで、そうなると話が変わってくる。社会から他者の何事かを排除しようとするのは、そんな簡単じゃない。(排除しようとは誰もしてないなんて反論は受け付けない。それははっきり、ウソだ)


しかも、「方法論」や「実証的」という言葉で科学の中立性を装いつつ、実際は「漢方はいいけどホメオパシーはダメ」「鍼灸は日本で歴史があるので研究する価値はあるけど、ホメオパシーはダメ」「カウンセリングのようなホメオパシーならいいけど、カルトみたいなホメオパシーはダメ」と、排除の対象となる基準が明らかに恣意的だ。とてもじゃないけど、中立的な判断をやってない。


ここに「優先順位問題」の問題があるわけで。対象となるものの基準が明確でないなら、これって単なる「俺様たち基準」でしかない。「俺様たちが気に食わないもの」を「社会から排除しろ」という主張の、どこに「科学は方法論だ」や「実証的だ」で正当化されるはずの中立性が確保されているのか。


こんなので、どうして「穏やかな相対主義くらいみんなわかってコメントしてる!」なんて言い分を信頼できるものか。


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話は単純で、自分が理解できない、気に食わない他人と共存しよう、いや、するべきだというのがまっとうな社会だという認識が薄いんじゃないですか。ニセ科学批判のように中立性を装いながら「俺様たち基準」で気に食わない他人は排除するのが当たり前、だって根拠は実証的な科学なんだもーんというのは、まっとうでもなんでもない。


もちろん、その理解できない他人が社会に垂れ流す問題や害があるなら、それはそれで解決すればいいし、法律違反があれば法に従えばいいのであって、よほどでない限り存在そのものを排除しようという議論にしてはいけないというのは重要な「意志」であり、また「良識」というもんだ。もし同じ理屈で自分が排除されかかったとしたら、どうやって自分の存在を抗弁するつもりかと考えたら、この「意志」と「良識」は欠かすべからざるものと言わなければならない。


したがって、ニセ科学批判がどんなにホメオパシーの「害」「被害」を論じてみても意味がないのは、その「害」を出来るだけ抑制するように運用することで社会のなかでの共存を図っていくにはどうすればいいか考えろといってるに過ぎないからだ。まして「反科学」「反社会的」だからダメってんなら、ニセ科学に限らず、「反科学」「反社会的」なもん全部ぶっ潰すべきなんじゃありませんか。そう主張するのが筋というものです。


ニセ科学批判に必要なのは、科学哲学による自己正当化じゃない。自分にとって理解できない、異質な他人と社会においていかに上手に共存していくべきかという「意志」と「良識」だ。ホメオパシー団体はいまは建前を語っていてそこに付け入るスキがある。これはチャンス。議論不可能ではないし、議論しなければならないんだ。