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私の住んでいる地域では、子供や孫の大学自慢する人が少ないという説がある。というのも、そこは大したことがないし、言ったところで誰も分からない、だから高校で自慢する。
「うちの子、○○高校で。。。」
というその高校が、どうして自慢のタネになるレベルだと信じているのか、私には理解が出来かねたりするわけだが。
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ただ、出身高校でその人がおおよそどういう人かを推し量ることはできそうである。この人はこういう高校を卒業しているから、だからこういう感じだろうという判断は、よくやる。
もちろん、大人になって卒業高校も大学もへったくれもないし、それで決めつけることは断じてあってはならない。
「え、あの人、あそこ出てるの!へぇ!」
みたいなこともしばしばだ。
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そのうえで、つくづく、卒業高校や卒業大学程度では人生は決まらないと改めて感じている。
地域で一番の高校を出て東大に行ったが、鬱になって帰ってきたら、周りとレベルが合わなさ過ぎて発狂した例などを聞くと、必ずしも東大に行くことが「いい」ことであるとは思えない。
発狂まではいかなくても、せっかく旧帝大の院を出たのに、地元で小売をやっている女性などが知人にいて、彼女もいろいろ思うところはあるだろう。彼女がどういう研究をしていたのか、話を聞いて「そりゃあ、おもしろいねえ」と一言言っただけで、非常に喜ばれた。研究内容を理解して面白いと言ってくれる人は、この街では私以外にまずいないはずである。
そうかと思うと近所にある偏差値50以下の高校をニコニコで卒業して、どこにその自信の根拠があるかと言いたくなるほど胸を張って生きているおじさんなど、東大卒でおかしくなった人よりはるかに幸せだ。
飲み屋で飲んでたら、元ヤンのママさん二人が飲んでおり、知り合いの子供がある高校に通っているという話をしていた。
「なにそれー!天才やん!」
と言っているその高校が偏差値55程度だったということもある。たぶん、「天才!」扱いされたその子は結構周りから持ち上げられて幸せなのではないか。
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その人にあった道があるはずで、そこで幸せに生きることが大事なのだとつくづく思う。
世間的には、地域で一番二番の高校に行って、東大京大に行って、、、というルートが、さも幸せを保証するかのように語られる。とりわけネットでは、そういうことが妬みまじりで語られる時すらある。たとえば「東大に行けるのは『実家が太い』から」などと言うが、いくら「実家が太」くても本人の頭の出来次第でどうにもならないというのは今の総理大臣が証明し。。。それはともかく、人生はそれほど単純ではない。
高校や大学の入学試験の季節で、嬉しい顔ができた人もいれば、ため息をついている人もいるに違いない。山があり谷があるとしても、最終的にその人自身が幸せなら、それでよいのではないか。
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日本と韓国の隣国関係は難しいものだと思うが、その理由の一つに言語問題がありそうなのは大変に面白い。
韓国のテレビドラマを、字幕ではなく、韓国語が分かる人に隣で翻訳してもらいながら見ると、きれいな女優さんがとんでもない罵詈雑言を言っていたりするのがよく分かる。
日本でも、今ではあまり悪口の類を言わなくなったけれども、昔はもっと多様な表現があって、日常的に使われていたはずである。私が生活している街でもそうで、子供の時には同級生たちが使う「きたない」言葉を学んで耐性をつけたものだった。
とはいえ、韓国語の罵詈雑言を、そのまま日本語に訳すと、普通の日本人はびっくりしてしまうので、 適当に丸めて訳す必要があるのだろうが、しかし悪いことに直訳で意味が通るように見えたり、漢字を使う表現などはそのままになってしまう。同じ熟語の韓国語での使われ方と日本語での使われ方の差を無視したまま「翻訳」されてしまうことがありそうである。
隣国・隣人を理解することはかくも難しい、ということなのであって、事情はヨーロッパでも大して違わない。
問題は、隣人を理解することはかくも難しいということが自覚されているかどうか、という点に尽きる。これは、日本でも韓国でも、あまり自覚されておらず、せいぜい自分たちの党派を支持する人々の顔色が意識されている程度のようだ。
愉快なものだ。
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数年前から日本史の復習を始めたが、一番最初に読んだのが「詳説日本史研究」だった。
私たちのような一般の読者が、手堅い知識を得ようとするならば、学校の教科書がもっとも手っ取り早い。
その点で、この本は教科書そのものではないが、日本史を復習したい大人にまず奨められる。これが難しければ、高校レベル、あるいは中学レベルの教科書をとりあえず通読することを推す。
それから、自分の興味のある範囲に手を出して行けばよいのではないか。
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同じことは世界史でも言える。とりあえず世界史の教科書を通読したり、自分の興味のある部分で、大学の教科書としても使えるようなものを読めばいい。
イタリアに縁のある私の場合、イタリアには「虎の巻」のような参考書があるので、語学の勉強をかねて、そういうものをまず読むことにしている。分厚すぎず、頭の整理にもなり、ちょうどよい。また、大学用に書かれた通史物も、目を開かされることがたびたびで、大変に面白い。
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一般書は手軽で読みやすいかもしれないが、著者のカラーが出すぎていたり、あるいは根拠を論ずることが手薄になりやすい。
最近話題になった右翼の日本通史本は論外にしても、学者の書き物でもその弊は免れ得ない。
それはそれで分かって読めば面白いのでいいのだけれども、歴史の専門家でもなんでもない一般の読者には、一般書の「弊」の部分を正確に判断できない。それが問題だ。
たとえば私は網野善彦をおおよそは通読し、面白かったには違いないが、一般書に限らず、網野の研究をどう評価するかは全く別問題なので、それはそれで別の関心を持たないといけない。
しかも、網野は一般書では学術論文よりも思い切ったことを言ってみる傾向が強いので、そこだけ見ると「ホラ吹き」度が増してしまって、それが面白いところだとは言いながら、読むほうは慎重にならないといけない。
しかし歴史の専門家でもなんでもない私には、網野を正しく評価することは不可能なので、いろいろなプロの意見を見ないといけない。
また、網野をまとめて読んでいると、彼以外の歴史家にも当然導かれるわけで、そうやって自分の中でいろんな見方や対話が生まれてくる。
先日も、網野の兄貴分だった永原慶二の「荘園」を再読がてらパラパラと眺めたが、永原の世界と網野の世界とどう関係するか、想像するだけで楽しそうだった。いずれ、気が向いたら、永原の本もちゃんと再読したい。
私は単なる物好きだが、物好きなりに勉強がてらそういうふうにして面白がっていても罰は当たらないだろう、そういう面白がり方でよいのだろうと、私自身は思っている。
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以前、「日本博」構想の話を書いた。
https://jura03.hatenadiary.jp/entry/2019/01/04/010527
津川雅彦が「世界最古の縄文土器を初め、仏像、 浮世絵、美術、伝統ある漆器、陶器、磁器の工芸、着物、盆栽、そして、縄文のアニミズムの信仰から鳥獣戯画を経て北斎漫画、アニメーションに至るまでの歴史的展示を行う」ものだと吹いたので、気持ち悪さが増すわけだけれども、
それに対して私は、学校教科書レベルだとこういう認識で記述されていないか、と書いた。だから、これを気持ち悪いというのは分かるけれども、教科書を書き換えない専門家のほうにも問題があるだろうと。
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東京の国立博物館に行った。本館の常設展示のほうを見ると、おおよそ津川雅彦とほぼ同じような展示がされてあった。鳥獣戯画やアニメはないにしても、思想としてはほぼ同じだ。
「日本」や「日本人」がかくのごとく相対化されていないわけで、その結果、右派のナショナリズムを批判する左派も「自然な」ナショナリズムにからめとられてしまい、相対化して考えられていない場面が多い。
こんなことでいいわけがない。
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先日、大阪に行ったが、東京の直後だと、違いが際立つ。明らかに人々の目付きが違う。歩く様子も違う。
少しホッとする。
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ただ、東京の人間は冷たい、という話をパリっ子にして見たら、そりゃあいいじゃないか、サイコー、などと言う。
おい、パリやと道端で人が倒れてたら助けんのか?と聞いたら、そいつがこっちを襲って来たらどうする、と返された。そりゃそうだ。
たとえば、ベルリンでもサービス業などはいたって冷たい。知人のベルリナーが、久方ぶりにベルリンに戻り、スーパーの会計で全く無愛想にドンと商品を扱っているのを見ると、安心するのだそうだ。
しかし、そうは言っても、先のパリジャンは、近所のショッピングセンターで小さな子供がはぐれて泣いているのを見て、心配してしかるべきところに連れていき、親が来るまで見ていたりして、他人に対して無関心なわけではない。
ベルリンがいかに無愛想でも、他人に無関心というわけではないだろう。
東京に感じる、他人に対するあの絶望的な無関心は何か、これがどうも引っかかる。
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東京にいると、保守化が進行する時勢もよく分かったような気がした。
私が住んでいるような地方都市が保守的なのは、最初から知れていることであって、かつ高齢化も進んでいて、こういうタイプの保守化は分かりやすい。
また、全国的にこれはそうだと思うが、観光客としても労働者とし
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久しぶりに東京に行ったが、今回は考えさせられることが多かった。
特にこの街は人間が多すぎるために、人間関係のありようがおかしいのではないかと思う。
よく言われることだが、人にぶつかっても謝りもしないし、平気で人を押しのけ、人が座っている椅子を無理矢理動かす。
一声かければ済む話のことをほとんどやらない。私の住んでいるような地方都市で、これはできない。
つまり、人間が多すぎるので、少々のことで謝っていたら切りがない、ということであって、それはよく分かるが、これは結局、他人に対する過度の無関心しか意味しないのではないだろうか。
たしかに、どこでも都市生活者は多かれ少なかれそういう傾向があるとはいいながら、知らないもの同士でも声をかけあうことは、ヨーロッパなら普通に経験したことを思い出す。少なくとも、ここまで他人に対して無関心である感じを持ったことはない。
知人女性は東京のさる駅で貧血で倒れていたら、駅員が対応するまでほったらかしにされていたそうで、こういうことは他国では考えられない。私はローマで、バスの中で倒れた老人を皆で病院に連れて行く場面を見たことがあるし、顔から血を流していた路上生活者のおじさんを救急車が来るまで他の通行人と一緒に面倒を見たことも私にはある。
そういうことを知っているので、他人に対する過度の無関心ぶりに恐れ入ってしまった。
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他人に対する過度の無関心の裏返しとして、仲間内・身内だけしか見ていないこともよく感得された。
今の日本人がなんでここまで身内の内部しか考えないようになったのかと前々から思っていたが、なるほど、ようは東京だと普段からこうなのだ。仲間内・身内を優先させて平気でいる。
だから、他人との接触の仕方が全く分からなくなってしまっているように見える。
その割に、他人からどう見られるかということだけは過度に意識しており、私には意味不明だ。これでは、病んでしまうだろう。