詳説日本史研究

詳説日本史研究

 

 
 数年前から日本史の復習を始めたが、一番最初に読んだのが「詳説日本史研究」だった。

 
私たちのような一般の読者が、手堅い知識を得ようとするならば、学校の教科書がもっとも手っ取り早い。


その点で、この本は教科書そのものではないが、日本史を復習したい大人にまず奨められる。これが難しければ、高校レベル、あるいは中学レベルの教科書をとりあえず通読することを推す。
 
それから、自分の興味のある範囲に手を出して行けばよいのではないか。
 
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同じことは世界史でも言える。とりあえず世界史の教科書を通読したり、自分の興味のある部分で、大学の教科書としても使えるようなものを読めばいい。
 
イタリアに縁のある私の場合、イタリアには「虎の巻」のような参考書があるので、語学の勉強をかねて、そういうものをまず読むことにしている。分厚すぎず、頭の整理にもなり、ちょうどよい。また、大学用に書かれた通史物も、目を開かされることがたびたびで、大変に面白い。
 
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一般書は手軽で読みやすいかもしれないが、著者のカラーが出すぎていたり、あるいは根拠を論ずることが手薄になりやすい。
 
最近話題になった右翼の日本通史本は論外にしても、学者の書き物でもその弊は免れ得ない。
 
それはそれで分かって読めば面白いのでいいのだけれども、歴史の専門家でもなんでもない一般の読者には、一般書の「弊」の部分を正確に判断できない。それが問題だ。
 
たとえば私は網野善彦をおおよそは通読し、面白かったには違いないが、一般書に限らず、網野の研究をどう評価するかは全く別問題なので、それはそれで別の関心を持たないといけない。

 

しかも、網野は一般書では学術論文よりも思い切ったことを言ってみる傾向が強いので、そこだけ見ると「ホラ吹き」度が増してしまって、それが面白いところだとは言いながら、読むほうは慎重にならないといけない。

 
しかし歴史の専門家でもなんでもない私には、網野を正しく評価することは不可能なので、いろいろなプロの意見を見ないといけない。
 
また、網野をまとめて読んでいると、彼以外の歴史家にも当然導かれるわけで、そうやって自分の中でいろんな見方や対話が生まれてくる。
 
先日も、網野の兄貴分だった永原慶二の「荘園」を再読がてらパラパラと眺めたが、永原の世界と網野の世界とどう関係するか、想像するだけで楽しそうだった。いずれ、気が向いたら、永原の本もちゃんと再読したい。
 
私は単なる物好きだが、物好きなりに勉強がてらそういうふうにして面白がっていても罰は当たらないだろう、そういう面白がり方でよいのだろうと、私自身は思っている。
 
 

 

以前、「日本博」構想の話を書いた。

https://jura03.hatenadiary.jp/entry/2019/01/04/010527

 

津川雅彦が「世界最古の縄文土器を初め、仏像、 浮世絵、美術、伝統ある漆器、陶器、磁器の工芸、着物、盆栽、そして、縄文のアニミズムの信仰から鳥獣戯画を経て北斎漫画、アニメーションに至るまでの歴史的展示を行う」ものだと吹いたので、気持ち悪さが増すわけだけれども、

 

それに対して私は、学校教科書レベルだとこういう認識で記述されていないか、と書いた。だから、これを気持ち悪いというのは分かるけれども、教科書を書き換えない専門家のほうにも問題があるだろうと。

 

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東京の国立博物館に行った。本館の常設展示のほうを見ると、おおよそ津川雅彦とほぼ同じような展示がされてあった。鳥獣戯画やアニメはないにしても、思想としてはほぼ同じだ。

 
つまり、ナショナリズムというのはこういう形で当たり前のように既にあるので、あたかもそれが「自然」であるかのように錯覚され、いざ批判しようにもすでに是認されているのになにをいまさらという話にしかならない。
 
無論、津川雅彦のような人の雑な暴論と国立博物館は違うけれども、しかし津川を批判するならば、国立博物館も批判されるべきだろう。

 

「日本」や「日本人」がかくのごとく相対化されていないわけで、その結果、右派のナショナリズムを批判する左派も「自然な」ナショナリズムにからめとられてしまい、相対化して考えられていない場面が多い。

 

こんなことでいいわけがない。

 

 

 

先日、大阪に行ったが、東京の直後だと、違いが際立つ。明らかに人々の目付きが違う。歩く様子も違う。

 

少しホッとする。

 

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ただ、東京の人間は冷たい、という話をパリっ子にして見たら、そりゃあいいじゃないか、サイコー、などと言う。

 

おい、パリやと道端で人が倒れてたら助けんのか?と聞いたら、そいつがこっちを襲って来たらどうする、と返された。そりゃそうだ。

 

たとえば、ベルリンでもサービス業などはいたって冷たい。知人のベルリナーが、久方ぶりにベルリンに戻り、スーパーの会計で全く無愛想にドンと商品を扱っているのを見ると、安心するのだそうだ。

 

しかし、そうは言っても、先のパリジャンは、近所のショッピングセンターで小さな子供がはぐれて泣いているのを見て、心配してしかるべきところに連れていき、親が来るまで見ていたりして、他人に対して無関心なわけではない。

 

ベルリンがいかに無愛想でも、他人に無関心というわけではないだろう。

 

東京に感じる、他人に対するあの絶望的な無関心は何か、これがどうも引っかかる。

東京にいると、保守化が進行する時勢もよく分かったような気がした。

 

私が住んでいるような地方都市が保守的なのは、最初から知れていることであって、かつ高齢化も進んでいて、こういうタイプの保守化は分かりやすい。

 

また、全国的にこれはそうだと思うが、観光客としても労働者としても外国人が増え、こういう現実に対して各人各様に向き合った結果、では私たちは何者か、と問う場面が明らかに増えている。

 
それに一番うまく応えるのが明治以来のナショナリズムで、これと(今の)右派は親和性が高い。
 
同様の流れは他の先進国で感じられるわけで、日本も免れ得ない、ということだろう。
 
もちろん、この種のナショナリズムは、どうしても独りよがりになるので、乗り越えられねばならず、いずれ揺り戻しがあるとは思うものの(Brexitのてんやわんやを見て、他のヨーロッパ諸国のポピュリストたちがEUEUROからの離脱を言えなくなった、などという話はその典型的だろう)、注意は必要だ。
 
実際、そういう心理が金儲けの種になって、政治的傾向を問わず、無責任な言説の温床になっているわけだ。
 
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さらに東京という街の気分そのものに、「和」「日本」を軽薄に求める部分がないか。
 
「和」を強調したイベントや宣伝をよく見かけたが、表面的に「和」なるものを消費しているようにしか見えない。
 
あえて言えばコンプレックスのようなものを感じる。つまり東京には「日本の伝統」なるものがない、あったとしてもどう転んだって京都と奈良には勝てない(このあたり、京都の宣伝は雑誌の特集記事などを含め巧みだ)。
 
だから、「日本文化」の消費のされように根っこを感じない。「和」や「日本」を連呼すればするほど、作り物めいてくる。それは、名人上手がほとんど死に絶えた歌舞伎座で歌舞伎のようなものを演じて、これが日本の伝統でございと見せているのと似ている。
 
しかし、文化とか伝統とかいうものは、そういうものではないのではないだろうか。あるいは生活に密着したものであり、あるいは命がけで伝承・発展してきたものであって、表面的に消費していいものとはとても思われない。
 
こういったこと諸々のことがすべて保守化を加速化させるために機能しており、無論オリンピックはその最大の契機になっている。
 
 昔、初めて靖国神社を訪れたとき、近畿の神社仏閣に慣れた私は「なんだこれ」と思った記憶がある。ロンドンのようにブロンズ像が立っており、むやみに立派な石畳が敷かれている。私の知っている神社とはまるで違う。確かにそこにあるのは、明治時代に無理やりこしらえられた「日本文化」だった。
 
あんな作り物めいたものが「日本」だとしたら、こちらから御免蒙りたい。
 

久しぶりに東京に行ったが、今回は考えさせられることが多かった。

 

特にこの街は人間が多すぎるために、人間関係のありようがおかしいのではないかと思う。

 

 

よく言われることだが、人にぶつかっても謝りもしないし、平気で人を押しのけ、人が座っている椅子を無理矢理動かす。

 

一声かければ済む話のことをほとんどやらない。私の住んでいるような地方都市で、これはできない。

 

つまり、人間が多すぎるので、少々のことで謝っていたら切りがない、ということであって、それはよく分かるが、これは結局、他人に対する過度の無関心しか意味しないのではないだろうか。

 

たしかに、どこでも都市生活者は多かれ少なかれそういう傾向があるとはいいながら、知らないもの同士でも声をかけあうことは、ヨーロッパなら普通に経験したことを思い出す。少なくとも、ここまで他人に対して無関心である感じを持ったことはない。

 

知人女性は東京のさる駅で貧血で倒れていたら、駅員が対応するまでほったらかしにされていたそうで、こういうことは他国では考えられない。私はローマで、バスの中で倒れた老人を皆で病院に連れて行く場面を見たことがあるし、顔から血を流していた路上生活者のおじさんを救急車が来るまで他の通行人と一緒に面倒を見たことも私にはある。

 

そういうことを知っているので、他人に対する過度の無関心ぶりに恐れ入ってしまった。

 

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他人に対する過度の無関心の裏返しとして、仲間内・身内だけしか見ていないこともよく感得された。

 

今の日本人がなんでここまで身内の内部しか考えないようになったのかと前々から思っていたが、なるほど、ようは東京だと普段からこうなのだ。仲間内・身内を優先させて平気でいる。

 

だから、他人との接触の仕方が全く分からなくなってしまっているように見える。

 

その割に、他人からどう見られるかということだけは過度に意識しており、私には意味不明だ。これでは、病んでしまうだろう。

 

 

 

 

日本にあるのは、右翼左翼よりも、大衆迎合主義という意味で、悪い意味のポピュリズムだけだったし、今でもそうだと思う。

 

大衆迎合的な言説が先にあって、それがたまたま左に合致するか、右に合致するかの問題で、その逆ではない。

 

悪い意味でのポピュリズムの拡大の点で、今のご時世、どこの国を見ても似たような状況になっているらしいので、いずれ私も少し勉強してみたいとは思っている。

 

こんなことでいいわけがない。

前回の記事で、高校受験の面接試験を受ける中学生たちが、「ノックは3回でないといけない」「ノック2回はトイレ用」という話を鵜呑みにしていて、呆れた話を書いたが、こういう記事があった。

 

「面接でノック2回」「室内でコート」は本当に失礼? プロのマナー講師に聞いてみた(ITmedia ビジネスオンライン) - Yahoo!ニュース

 

ですので、私は「ノックを3回しない人は間違っている」「このマナーに絶対従わないといけない」と断言するつもりはありません。ネット上で「回数は気にしなくていい」という議論があることも知っています。

 ですが、マナーに敏感な人が増えており、「2回は失礼」と考える人が一定数存在することも事実なのです。「マナーは他人を不快にさせないためにある」というのが私の考え方なので、気にする人がいる以上は、ノック回数に気を配るべきだという考えのもと、2回ではなく3~4回ノックするよう指導している次第です。

 

この理屈を見ると、他人が何に不快さを感じるのか、だれにも分からないのに、そこを基準にして「マナー」をこしらえていることがよく察せられる。

 

では誰かが「3回のノックはこれこれの理由で失礼」という話をでっちあげて拡散し、それを信じる人が出てきたらどうなるのだろうか。


本当に「マナー講師」ならば、つまり「先生」といわれる人ならば、「不快」に思うほうが間違っているとはっきり言わないといけないのではないか。

 

どうしてそこまで他人の「不快」に振り回されねばならないか。

 

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「マナーに敏感な人が増えてきている」というのは、真偽不明の「マナー」なるものを根拠に威張りたい人間が多い、そしてそれに振り回されている人が多い、という面もあるんだろうと思う。

 

実際、この記事の冒頭でも記者が、アルバイト先でノックを2回したら、激怒された話をのせているが、そこで激怒するほうがバカだとどうしてはっきり言えないか。 

 

実際、後にも先にも、そのことで激怒されたことはないということだから、その種の人間がいかに愚かか、よく証明していると思うが、「マナー」というのはバカに合わせることらしいからいかんともしがたい。

 

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「他人を不快にさせる」という大変にぼんやりした基準で行動することを気にし続けなくてはいけないから、

 

だから、随分病んだ人が多いのではないか。コミュニケーション上の問題から、対人関係を過剰に気にする人が少なくないのではないか。

 

なにも、私がまともだというつもりはない。しかし、こういう無駄なストレスに正当化を与えて流通させることには強く抵抗したい。

 

単純な話、他人の不快を気にするあまり、自分の不快のやり場がなくなるようでは、そりゃあ病むだろう、と思われるのだ。