前々からよく分からないのが、日本の首相が維新の会とつるんでいることと、吉本興業と密接な関係を持っていることで、この二つの要素は基本的に同じ線で考えるべきものと思っている。

 

これに森友問題も重なる部分もあるわけだが、まあろくなものではない。

 

あらゆる情報が集まるはずの首相が、何も知らなかったなどと無責任なことは言ってはならないと思うし、言わせていいわけがない。本当に何も知らない、分かってないのであれば、愚かにもほどがあるとしか言いようがない。

 

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私が気になるのは、本当は表に出てきてはいけない人たちの、日本語の使い方や感覚、倫理観念や上下関係といった目に見えないものに関することで、こういったものは、ごくごく普通の人たちとは一線を画するべきものだろう、と私は思っている。

 

先日来、大騒ぎになっている吉本興業の話など、メディアに大物然として出てくる人の出身が部落なので、振る舞いが完全にそういう地域の人の振る舞い方のまま、無批判に垂れ流されてしまっている。

 

それ自体に問題はないが、これはかなり特殊な世界の人たちの間で通用するべきものであって、一般の人たちと無関係のことだということをよくわきまえるべきではないか。


これらの諸々は、網野善彦流に言えばまさしく「異形」で、それが普通の顔、当たり前の顔をしているどころか、むしろ称賛される気配すらあるわけで、おいちょっと待てと私なぞは思う。

 

「異形」が「異形」であるには、「異形」ではない部分が厳然と存在しないと「異形」にならない。

 

昔は、興行とやくざの関係などは当たり前のことで、今NHKに普通に出ている、善人然としたある落語家など、30年以上前には暴力団の宴会に営業で出た話などを大阪のテレビでしていて、大いに笑いをとっていた。見ているほうも、それはそういう世界のものという線引きがあったものと思う。

 

その線引きがあやふやになっているうえ、ただの芸能事務所が日本を代表する企業然とした顔をしだしたために、余計にややこしい話になっているらしく、それはそれで大きな問題だが、それとは別の問題として、本来線引きが必要な世界が、メディアを通じてどんどん普通の世界に浸透しつつあるのではないかと思う。これがどうして問題視されないのか、私にははなはだ疑問だ。

 

ネットでは吉本興業が教育事業を展開しようとしていたという話があり、ああいう人たちが教育に手を出して、どういう子供が育つか、想像するだに恐ろしい。まさにファシズム全体主義との親和性がああいう世界は高いからだ。(森友問題を思い起こすべきだろう)

 

今の日本のソフトな、あるいはマイルドな全体主義っぽさを確実に醸成・促進しているものにはいろいろな要素があると思うが、その一要素は、ここにもあるように思う。

 

芸能、その背後にある世界と政治の世界との関係について、もっと敏感になるべきではないか、このところそう考えている。

 

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維新の会のあの下品さ、吉本の「こてこて」な感じも、どちらも大阪を代表するものではない。せいぜい、大阪という土地柄のごくごくほんの一部でしかない。

 

大阪というところは、本来はもっと上品なところであって、だからこそ(今はどうだか知らないが)文楽のような本当に偉大な芸術を生むことができた。上方落語一つとっても、3代目春団治、5代目文枝といった名人たちは腹を抱えて笑わせてくれても、品は失わない人たちだった。それが大阪という土地柄のはずだ。

 

それなのに、一番ダメな部分がこういう形で政治と関わり合うようになってしまっていることに、私なぞには本当に残念だし、所詮大阪の話と片付けるのではなく、よほど警戒する必要があると思う。