自己肯定感を渇望している人が少なくないのだろうか。自分を肯定することがあたかも必要なこと、いいことであるかのように言われる場面をよく目にするように思う。

たしかに悪いことではないと思うが、私はここで自己肯定の害について一言言いたい。

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自己肯定の強い人というのがいる。そういう人は自分の過去と現在を肯定するので、自分を強く肯定できる。

しかし、実際のところ、それほど都合のいいことばかり人生であったはずはなく、どこかにウソが混じっているから、自分を肯定できるのだ。

どういうことか。

つまり、自分を強く肯定する人というのは、単に無反省なだけで、自分にとって都合の良い、心地よいことしか思い出さない人であって、都合の悪いことは忘れているか、あえて見ていない。

言い換えると、自己肯定の強い人は、頭が悪いか、あるいは意気地なしの卑怯者だ。

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これも、ただ自分を肯定するだけであればかまわない。

問題はその肯定が他人に影響を及ぼすことにある。

たとえば、自分はこうだったからお前もこうしろ、という話になることがある。自分はこれでうまくいってこんな素晴らしい今の自分になっているんだから、お前もこうしろ、こうするべきだ、というわけだ。

もちろん、これはおかしいのであって、仮に自分の場合にうまくいったとしても、他人の場合にうまくいくかどうかはよく分からないわけで、「お勧め」はできても、「やれ」という強制・命令はできない。

こういう場合、周りが非常に迷惑する。笑い話で済めばいいが、笑ってすまないことも多くあるだろう。

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しかしよくよく考えてみれば、ただ自分を肯定する場合であっても、他人に害を及ぼさないかと言うとそうではない。

自分を強く肯定する人は、都合の良い過去や現在しか見ていない、自分にとって都合の悪いことは見えていない、と書いたが、「自分にとって都合の悪いこと」は当然、他人にとって都合の良いこともあるはずだ。あるいは「自分にとって都合の良いこと」は他人にとって都合の悪いこともあるはずだ。

つまり、自分を肯定するには、他人を切って捨てなければならない。

言い換えると、自分を強く肯定する人というのは、どこかで他人を否定することで成り立っている、と言ってよい。否定される側はたまったものではない。

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もちろん、自己肯定というのはある程度は必要に違いない。本当に自分を否定しにかかると、鬱病などの精神疾患、最悪の場合は自殺に至ることもありうる。生きている以上、何らかの形で自分の存在を肯定する材料が必要だ。

確か遠藤周作が、美人とは言い難い女性がなんでもネガティブにものを考えるようになった場合、彼女への励ましとして、例えばダンス教室に通ったらどうか、とエッセーに書いていたように記憶する。自分は踊れると思えば自信になるし、姿勢が良くなったりする効能はあろうし、また新しいことを始めると世界が変わり、あるいはダンスをきっかけに素敵な異性と巡り合うことがあるかもしれない、それは「美人」という要素に安住した女性と比べてどちらがより魅力的か、という話だったように思う。

私がここで文句を言いたい「自己肯定」は遠藤の言いたいこととはもちろん違う。

ただ「自己肯定」は、それほどいいことばかりではない、迷惑をふりまくこともあるのだということは、書いておきたい。「自己肯定」は「他人否定」と裏腹になっていることがあり、ろくなものではない。