私は近所の子供たちと接する機会が多い。成り行きで勉強を少し見てやったりすることもあるが、その時には目の前の成績のことは考えないように、子供たちに言っている。

たとえば、英検を受験するとして、英検何級を通るための勉強、というのは、その試験に通るためだけだったら意味があるかもしれないが、大事なのは英検を通ることよりも、英語の力をしっかり身につけさせることにあるはずだ。

なので、毎日の積み重ねによる地道な努力をするように言うことにしている。

繰り返すが、目の前の英検に通ることそのものには全く意味がない。

あるいは中学校の数学ができない子供は、えてして小学校の算数が分かっていなかったりする。そこで、目先の定期試験でいい点数をとるために、出題範囲をとにかく勉強すればいいんだというのは、それは勉強したとは言わない。

仮にそれで点数が良かった、思ったほどひどくなかった、ということになっても、全く意味がない。

そういう場合、私は、小学校の勉強からやり直すように言っている。そうすることで、将来のための基礎がしっかりと築かれるからだ。日本の学校の教育内容はずいぶん心細いものがあるとはいえ、小学校から中学校にかけて、真面目に勉強すればそれなりの知識は身につくような内容に一応はなっている。

繰り返すが、目先の定期試験のために付け焼刃の勉強をしてほどほどの点数をとることに、意味は一切ない。

ただ、私が勧めているような迂遠な方法は、結果が出るのに時間がかかる。だから、勉強する方はかならずどこかでうんざりしてくる。これだけ勉強してるのに、点数が上がらないのでは意味がないではないか、と言い出しかねない。

だから、どこかでその補填をしてやる必要は確かにあるが、しかし基本的には回りくどいようだが、着実な方法しかないものと私は思う。

そうやって勉強して、結果的に試験でこけても実力はついているはずであるし、うまくいけばなお嬉しい、励みになるだろう。

・・・

しかし私が言いたいのは勉強の方法の問題ではない。子供を問題にしたいわけでもない。

目先の利益、目先の現実にかまけて、そこで運もあってちょっとうまくいくと、それで自足してしまうのが、私は大変に嫌いだ。

確かに、目先はいいように見えるかもしれない。目の前の試験の点数は悪くないかもしれない。

でも、それではダメなのだ。なぜなら、後に響くからだ。後でもっと苦労するからだ。

ようするに、その場の利益に目がくらんで、それで自己正当化する人たちに大いに文句がある。「あんたがた、根性が腐っとるわ」とか「料簡が狭いにもほどがあるやろ、ボケ」と言ってやりたい。

日本は真珠湾攻撃で目先に捕らわれて、最後に大負けした過去がある。このことを日本人は全く反省していない。

その反省していないということが、ありとあらゆる場面で目につきすぎるのが私は不満だ。