私はたまたま西洋音楽というものに縁があった人間だが、常々、日本人である自分がなぜ西洋古典音楽なのかという疑問を抱えながら生きている。

そうすると、しばしば「日本人らしさ」というものがあるかのようにも言いたくなる。たとえば、西洋人の体格と違って日本人にはこれは難しい、それよりも日本人の器用さを生かして云々。

しかし、たいていの場合、この種の「日本人らしさ」や「日本人の良さ」などという言説は、自分に甘い言い訳でしかない。ある技術が自分にできないことの言い訳に「日本人」を持ってきているだけだ。

その証拠に、たとえば「日本人の良さ」や「日本人らしさ」なるものを、ちょっと厳密に考えてつついてみたら、何の根拠もないことがほとんどだ。

それではいけない。そういう言い訳をせずに、とにかくできるまでやって見る、同じようにできるまでやる。そうでなければならない。

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これは、西洋由来のものの場合、どんなものでも言える。大きく言えば民主主義といった政治・思想、もっと小さなところで言えばスポーツ分野など。

こういう分野では往々にして、「日本人らしさを生かして」などという言葉が飛び交ったりするが、きわめて見苦しい。

自分がうまくできないことの言い訳に「日本人らしさ」「日本人」などを持ち出すんじゃない。そんなものはない。そういうことを言う前に、その技術をできるようになってみろ。

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さらにたちが悪いのは、この種の「日本人らしさ」を表に出すことで、「世界と戦う」というボンヤリしたイメージができあがってしまうことだ。「世界と戦う」日本人、カッコいい響きだと感じる人が少なくない。

ところが、現実には竹やりで戦争をしようとしているようなことがあまりにも多い。「日本人らしさ」なるものは所詮竹やりなのだが、それを言ってしまうとおしまいだったり、ひどい場合はビジネスに絡むので、竹やりは竹やりで無力じゃないかと表立って言えない。

そこをあえて「日本人らしさ」と言い募ることによって、自分と周囲をごまかす。そして、それが通用する世界の中だけで生きることが可能である場合(しかもそういうことが少なくない)、それで満足する。

それでいいわけがない。竹やりは竹やりだ、その技術ができない理由はお前の努力不足・才能の不足・運の不足だ。「日本人らしさ」などといってごまかすな。

・・・というふうに、私は考えることにしている。