学者の本を読んでいて、いつも、自分が研究しているわけではないのだぞと思う。自分は単にもの好きなだけだという自覚を持ちたいということなんだが、読書好きな多読家にそこのところを錯覚する人が少なくないように思う。

 

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たとえば、網野善彦を読んでいて面白いと思うものの、自分は別に日本史の学者ではないし、大学でも日本史を勉強したわけではないので、十分に理解できないことが多いうえ、これを批判的に読もうと思ったらまず無理であって、そのうえ執筆当時の学会の中の位置づけを意識しながら読むことは、他にもやりたいことがある私には到底不可能だ。

 

だから、自分で別に何事かをやっているわけではなくて、単に網野の尻馬にのって面白がっているだけでしかない。

 

もちろん、網野自身は荘園研究から始めた、第一級の実証史家であって、つまり史料を渉猟してから物を言っている。著作集の月報で、網野と親しかった笠松宏至と勝俣鎮夫が言っている。

 

笠松 (前略)でも網野さんは、文字は本当によく読めましたよ。一方であれだけ理屈もこねることができて、そのうえ字も読める人は、めったにいないんじゃないですか。壮大なテーマも全部史料に基づいて実証的にやろうとしたから、大変なことになったのです。

 

勝俣 網野さんのことを実証的じゃないという人たちは、そこがわかっていないのですね。私は網野さんのスケールの大きな構想の基礎部分は、高度な実証力で固められていると思いますがね。

 

笠松 そこが本当に不思議なんです。あんな分厚い実証史家ってめったにいないのに。

 

そりゃそうだろう、プロの学者なんだから史料を読めるのは当たり前だろう、と言いたくなるが、他方で網野を読む一般の人たちは史料を読めないし、彼を批判的に読むことも相当難しい、つまり網野を読むことはそれだけ困難だということが分からないままに読んでしまう結果、錯覚する。尻馬に乗っているだけなのに、尻馬に乗っているだけだという自覚を失う。

 

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これは他のテーマでも同じように言えることだ。 読書の弊・多読家のありがちな錯覚だと思うが、謙虚な姿勢を失っている「インテリ」や「賢い人」があふれかえっているように私には見えて仕方がない。