積読中になっていた網野善彦を読んでいると、つくづく、近代的な歴史学明治維新後に輸入されたことの限界を感じる。網野が何度も指摘しているが、「日本史」と言って、明治に成立した近代国家としての日本が前提されたまま、古代、あるいはそれ以前からの「歴史」「日本史」が語られてしまうことの弊害が大きかった。

これが欧州なら19世紀の歴史学ならともかく、そういう前提がそもそも成立しない。

私が縁のあるイタリアでも、「イタリア史」の本は確かにあるが、それがただいま現在の「イタリア共和国」の歴史とどうつながるかは厄介な問題だ。そもそも「イタリア史」と言ってどこを出発点にするかが悩ましい。リソルジメントからか、あるいは古代ローマの誕生からだろうか。それに、海陸から、人々の交流があり、あるいは侵略され、「単一民族」といった幻想を持つことが最初から不可能だ。

周知のように、リソルジメント以前に「イタリア」という国があったわけではない。リソルジメントで無理やり、かつ非常な幸運でイタリア半島にあった諸国家は統一できたのであって、言ってみれば相当に人為的に作られたという印象を持つことが容易にできる。

これが日本の場合、日本列島に住む人々が統一国家を形成していることが、あたかも自明の理のように、自然なことのように前提されているわけで、そこがそもそもおかしい。日本でも今のような近代国家を形成することは、別に自然なことでもなんでもなかったはずだ。

これはやむを得ない一面は確かにあり、歴史学が明治に輸入されたことの影響が、こういう部分に端的に現れていると思う。

ただ、現在の日本史学の様相は、網野が現役の歴史学者であった時代とは全く異なっているようであり、単純に日本史の教科書レベルでもアイヌ琉球に関する記述が私が学校に通っていたころとは違っている印象を持っている。歴史学の成果と言っていいんだろう。

しかし一般的にはどうだろうか。

やはり今でも、「日本史」というと、無意識に何事かが前提されていないのだろうか。そのことを、網野を読んでいると強く感じる。