網野善彦は、もともと熱心な共産党員だったが、理論にあわせて史料を読むことに抵抗を持っていたところが、イタリアのファシズム史研究の大家レンツォ・デ・フェリーチェと似ている、という話は以前書いた。

網野の場合、そうは言ってもマルクス主義には心情的には近かったようであり、1978年の「中世東寺と東寺領荘園」にはエンゲルスへの言及がある。

また、1980年の「日本中世の民衆像」のあとがきには次のようにある。

「われわれをとりまく状況は、天皇をふたたび日本民族の統合の中心にすえるべく、急速に動きはじめている。それは、歴史を学び、その真実を究めようとする者に対し、これがもとより歴史の事実に即したものではないことを明らかにするとともに、民衆自身の生活そのものの多様な営みのなかから、民衆がそれとして形成されてくる道筋を具体的に解明することを要求している、と私は考えている。」

後半はともかく、前半は今は書けない、あるいは非常に書きにくいのではないか。しかし、私はこのくだりについて、網野に大きな問題があるとは思わない。

真実を語ることが学者の使命なのだから。