講談社学術文庫になっている、網野善彦の「中世再考」に、次のような注釈があった。「日本中世の自由について」という論考に付されている注釈(21)に、

世界史的に見ても、時間を天皇の死によって規定されるという、まことに珍奇きわまる事態をついにいまも許しつづけている日本人の一人であることに対する痛切な羞恥を、日本人の圧倒的な多数が共感することなしには、天皇は今後いつまでも「公」に関わりを持ちつづけるであろう。

とある。

初出は1985年の論文で、「中世再考」は1986年に出版されている。当時は中曽根内閣で、随分右傾化が叫ばれた時代ではあったような印象がある。

ただ当時、いくら売れっ子の歴史家とはいえ、網野善彦がこれを書けて一般向けの書籍として出版できていた。今の歴史家が一般向けにこういう一文が書けるかと言うと、とても書けないと思う。

私は講談社の学術文庫版を持っているが、これも網野善彦というネームバリューがあるから出版できているだけなのではないだろうか。

こういうことを思ったのは、今の右傾化の背景にはもともと知識層やエリート層が保守的だということがあって、特別に右傾化しているわけではないのではないかという問題について、かねがね思うところがあったからだ。

確かに、そういう一面は確かにあったに相違ないんだが、その知識層にしても、現在のようなタガの外れた右派の言説を支持していたかどうか、これは検討する必要があるだろうし、今では書きにくいことを歴史家が普通に書けている。

これを、どう理解すればいいのだろうか。

・・・

教科書で天皇の死を「没する」「なくなる」と表現することも認めたくない網野の言うほどの「珍奇」さがあるかどうかはともかく(たとえば、エリザベス2世が死んだら、英国民としてはやはり一時代を画するという感じになるのではないだろうか)、言いたいことを言うということが、単にイデオロギーに基づく信念と確信のあるところでしか保障されていないというのはどうなのだろうか。

程度の差はあれ、意見を同じくする人たちが集まった世界のなかでその意見を言うことは言いやすいが、違う意見をわざわざ言うことは難しい。

それは確かそうだが、右翼が怖くて網野のような書き方ができないし、出版もできないとなると、話が違ってくるように思う。

あるいは当時、左翼の反応が怖くて右翼が物を書けない、ということがあったかどうか。

そこで、発言を保護する根拠が、イデオロギーであってもいいけれども、それだけではなく、もっと普遍的な根拠によって保護されるべきだと私は思う。

あるいは、イデオロギーの世界で自由が一定程度確保されていた時代よりも、今のほうがはるかに窮屈になってしまっているように見えるのはなんなのだろうか。

網野が死んで15年もたっていないのに、随分と変わってしまったような気もする。もしも網野が生きていたら、今の日本をなんというだろうか。天皇退位についてどういう反応を示すのだろうか。

網野を読んでいると、答えの出せない問題を次々と感じるので、備忘として書いておく次第。