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イタリアの戦後政治を見ていると、冷戦時代はとりわけ、政治家たちの戦争体験が大きな重みを持っているのがよく分かる。イタリアの場合はとりわけ、ファシズムの発祥の地でもあり、ファシズムをどう経験したか、という要素が大変に大きい。
たとえば、キリスト教民主主義のトップで首相を長く務めたアルチデ・デ・ガースペリは、政治家としてファシズムの弾圧を受けたが、バチカンに保護された期間が長く、ムッソリーニの政権が瓦解するまで、若い世代と議論しながら政治情勢の分析をやりながら取り残されないように努力して、その分どこか俯瞰的に現実と向き合うことができたようだ。だから、デ・ガースペリは常に現実主義的で、首相を務める間、大きく間違うことはなかった。
他方で、同じキリスト教民主主義の左派のリーダーで、デ・ガースペリと対峙したジュゼッペ・ドッセッティは、レジスタンスの経験から共産党とはどちらかというと融和的だった。しかも頭脳派だったため、まずあるべき政策やあるべき政党運営、あるべき民主主義という様々な理念から入るところがあった。だから、デ・ガースペリと根本的に異なるところがあり、また若さゆえということもあったのだろうが、理念のために現実を変えようとすることがいささか急で、それだけに現実との乖離がはなはだしくなり、最後はドッセッティは政治の場から引退しなければならなかった。
しかしどちらも、戦争経験が、戦後のイタリア再建の過程で、政治家としてどう振舞うか、どう考えるかという点に大きな影響を及ぼしていることは明らかで、各々が自分の経験から、徐々に政治家としての思想や行動を形作っていった。
そしてそれは、他のイタリアの政治家についても言えることだった。
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現在では、そのような、現実から出てきた大きな課題に向き合った結果として政治家をやっている人がどのくらいいるのかという疑問がどうしても出てきてしまう。イタリアの各政党とも、単に世論の支持を得たいがために、適当なことを言っているだけにしか見えない。
とにかく、昔と随分違うものだと思うわけだが、さて日本の場合はどうかというと、事情はたいして変わらなさそうだ。
目の前の厳しい現実に向き合って、取っ組み合うことがないと、なにか、一本、柱のようなものを得ることがないのではないかと思うが、いや、これは政治家に限ったことではなく、自分はとても偉そうなことを言えたものではない。
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とはいえ、先日も喫茶店で転職活動の面接のようなことをやっている、背広姿の男性二人がいたが、面接を担当している男性が、
「学生時代からこれまで、一番苦労して、それを乗り越えたという経験にはどんなものがありますか」
という質問をしていた。世間を見ていると、どうも、ある苦労とそれを乗り越えた経験というパターンの語りが定型になっているらしいが、
「あんたの苦労話なんて屁みたいなもんじゃないか、しゃらくさい」
「面接するほうも、もっともらしい顔をしてそんなアホくさい質問をするんじゃないよ、バカ」
とでも言いたくもなる。随分小さな話を「苦労と、それを努力して乗り越えた話」に仕立て上げる時代では、戦争直後を振り返ってみてもほとんど無意味で、もう嘆息するしかない。