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きくT(11/28ベアーズ12/3高松@kikumaco
「民主主義は多数決ではない」というのは要は「互いに折りあえる点を探すのがだいじ」っていうことなんですけど、今の日本は少数派でも「絶対妥協しない」という姿勢を貫こうとするから多数決になっちゃうんですよね。「絶対妥協しない」人たちが集まったら、多数決しか残らない
この人は、確かイラク戦争反対かなにかのデモに参加したと言っていたのではなかったかと思うので、何を言っているのかというか、ここまで来たかというか、何とも言えないものがある。
民主主義における、少数派の意味と合意形成の問題について、などという大きな問題を考える余裕は私にはないし、答えも持ち合わせていないが、イタリア・ファシズム史を眺めていて思うのは、仮にファシズムに反対する人が少数になった場合にどうなるか、それでも多数で押し切るのを是とするか、という問題だ。
イタリアの場合は、1924年にマッテオッティ事件が発生した時に、野党側は議会をボイコットした。これは国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世の介入を期待したものだったが、完全に期待外れに終わり、かつ本来議会にいるべき人たちがいない状況になり、野党として機能を放棄した格好になっているので、ムッソリーニにとってはむしろ有利となる面もあったようだ。
どうすればよいのか、早急な答えは出さずに、疑問は疑問として残しておきたいと思っている。
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ただ、小池百合子が衆議院選挙に出るかどうかというときに、彼女をファシスト呼ばわりする声が出たのを思い出す(菊池誠もそれに同調した一人だった)。これはいろいろな意味で懸念材料だと改めて思う。
一つは、日本ではファシズム、あるいはファシズム研究の理解の乏しさが如実に現れていたのだなということだ。扇動家という意味合い程度でしかファシスト・ファシズムという言葉が理解されていなかったわけであって、これは全くいいことではない。
そういう自分も、このところイタリア・ファシズム関係の本を読んでいるからこそ分かってきただけで人のことは何にも言えないのだが、ファシズムはもっと複雑な現象で、一口で説明できるような代物では到底ないし、ましてレッテル貼りに使えるようなものでもない。
しかし現実には、レッテルとしての「ファシズム」は世界中で使われてしまっている。歴史家の中には、そういう現状はよくないとして危惧を抱いて研究活動をしている人も多い。それはそうなんだが、日本の場合、ちゃんとした学者が一般に説明するということがあまりないかもしれない。だから理解が進んでいないのではないだろうか。
そのうえで、少数派と折り合いがつかないときに多数で押し切るしかないと言うのが、総じて安倍さんを支持しそうな人たちであり、かつ小池百合子をファシスト呼ばわりしたような人も中にはいる、というのが私には気になっている。
つまり、単に自分がいまたまたま多数派の側にいるから、「絶対に折り合いがつかない少数派なんて知らんがな」と言っているだけなのではないかと思わざるを得ない。
そんなことでいいんだろうか。
「ファシスト」というレッテルは面白い。余りにもイメージが悪くて、フランスのル・ペンも自分たちはファシストではないと否定するほどだ。政権与党を支持する人が、それほどイメージの悪い「ファシスト」というレッテルを自分が支持しない少数派に貼って、それで「少数派が折り合いをつけないのであれば、多数決で押し切るしかない」と言い出すことに、私は強い違和感を感じる。
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あとは付け足しだが、結局ニセ科学批判の「ニセ科学」というレッテルもあまり深いことを考えておらず、適当に都合よく使っていただけなのが、「ファシスト」というレッテルの使い方に表れている。そういうレッテルを貼って批判するという思考に慣れきっているのではないか。
ニセ科学批判は、それ自体ではたいしたことがないが、いろいろなことについて大いに示唆的だと私が考えている理由が、このあたりにある。