https://twitter.com/nega_DEATH13/status/942647874034139136

笹山直規@nega_DEATH13
松本人志安倍総理とTV番組絡みで会食しただけなのにネットで袋叩きにされてる。「芸人だったらもっと権威を茶化せ!」みたいな批判にもマジでうんざり。「芸術家なら常に体制側に牙を向けてないと認めないぞ!」みたいな古臭いクソじじいの価値観と一緒で気持ち悪い。全く関係ないだろう。

https://twitter.com/suna_usagi/status/942736049326845952

赤い砂兎@時々黒くなる@suna_usagi
RT まったく、マリーアントワネットに結婚を申し込んだモーツァルトが草葉の陰で泣いているぞ。

誤解があるようだが、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトは権威と権力を相手にしても動じない人だった。(そもそも、子供のしたこととはいえ、女帝の子にお嫁さんにしようと言い出すのはとんでもない話なんだが、今ではそれも分からなくなっているのだろうか。それはともかく)

そのもっとも有名な逸話が、雇い主のザルツブルク大司教コロレドとの衝突と、その後の独立だろう。1781年、モーツァルト25歳のことだ。

モーツァルトは、それ以前からも不満を抱いていたようで、父レオポルトに愚痴っているが、ウィーンに移ってからのコロレド大司教から受ける使用人扱いに耐えきれず、ついに正面衝突し、芸術音楽家として独立してしまう。息子の就職に関しては、レオポルトが散々、気に病んでいたのに。

今風に言えば、自分から大企業の正社員の口を捨ててフリーになったようなもので、モーツァルトのような人物でなければ、無茶もいいところだ。

もちろん、彼にも生活がある。ウィーンの宮廷とつながりを持とうとして盛んに就職活動を行っているが、なかなかうまくいかない状態が続いた。

しかし、モーツァルトは権威・権力にただ迎合するような人ではなかった。

たとえば、新作オペラの題材に「フィガロの結婚」を選んだのはモーツァルトだったらしいが、ボーマルシェによる原作の、演劇の「フィガロの結婚」はウィーンで検閲に引っかかって禁止されており、政治的に問題がある作品であることはモーツァルトも承知だったはずだ。当時の皇帝ヨーゼフ2世は演劇には並々ならぬ意欲を持った人で、劇場経営に口を出せるだけの見識を持った人だった。そのためオペラ「フィガロの結婚」の製作に取り掛かる際も、心配した台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテが皇帝に渡りをつけて、検閲などの問題をうまく切り抜けたようだ(ただし、ダ・ポンテという人は大作家だがほら吹きなので、そこは注意しないといけないが)。

あるいはドイツ語によるジングシュピールである「魔笛」は、フリーメーソンとの関係が有名な音楽劇だが、ヒロインであるパミーナが中心的役割を担っている。現実のフリーメーソンの世界は女性差別が厳しかったのに、「魔笛」ではタミーノとパミーナのカップルが揃って神殿に迎えられる。モーツァルトとシカネーダーらが台本を書くときには当然、意識してそういう筋書きにしている(モーツァルトは、オペラを作曲するときには台本に非常にこだわった人だ)。

という次第で、作品にもモーツァルトの傾向は現れており、ただただ権威と権力に盲従する人ではない。

個人的には、こういう反骨精神のあるモーツァルトが私は大好きだ。

・・・

もちろん、今のような自由な世の中ではないので、大っぴらな権力批判は難しいが、その中でも古今東西の芸術家たちは、いろいろ考えて工夫し、言いたいことを言おうとしてきた。

お笑い芸人はなおのことで、宮廷にいる道化師の類は、言いたいことを自由に言える存在だ。たとえばリア王の道化師なんかがすぐに思い浮かぶが、王様のご機嫌取りばかりが道化師ではないはずだ。

追記
モーツァルトの信念の一つには、身分制を越えて、人間は同じ人間だ、というものがあったように思われる。

たとえば「魔笛」はそこを強調した作品で、鳥人間のパパゲーノは王子タミーノに向かって「俺はお前と同じ人間だ」と言い、黒人奴隷の監督をするモノスタートスを見て最初は驚くが「黒い鳥がいるんだから黒い人間がいてもおかしくない」と言い切る。ヒロインのパミーナは鳥人間パパゲーノに対しても全くこだわりのない付き合いをする。ザラストロは、タミーノのことを王子以上の存在だ、彼は人間だと言う。

極めつけは、パミーナをものにしたいモノスタートスが「俺だって恋をしたい、キスをしたい、白い女はきれいだ」だからお月さんよ、ちょっと隠れておくれと歌うとき、黒人も同じ人間じゃないかという意識がモーツァルトにあったかどうか、ここは議論があるところのようだが、そういう意識があったとしてもおかしくない。

今の日本人は、まるで考え違いをしているように私は思うが、それでウィーンの作曲家の心が本当に分かるのだろうか。彼が持っていたような反骨精神を、現代の我々はどのように抱いて表現できるのだろうか。