呑兵衛雑談(2)「ニュースステーション」ポピュリズムとしての右翼左翼
先日、このような tweet を見かけた。
https://twitter.com/taketsuru24/status/516052536038408195
久米宏のニュースステーションを観て「庶民」が自民党批判に溜飲を下げ、朝日や岩波が権威で、横路が地方の雄だった時代。団塊世代はさぞ懐かしかろう。
私は自民党批判に「官僚批判」を加えたいけれども、これを見たときは、「やっぱり自覚がないんだな」と改めて思った。
なぜなら、そういう自分も「ニュースステーション」の子だ、ということがこの人には分かってないからだ。
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「ニュースステーション」は民放の番組だから、視聴率が高くなるように、つまり「売れる」ように作ることは当然で、やや左サイドから自民党批判や官僚批判などを繰り返して、「庶民」の溜飲を下げさせたのはそうだと思う。
しかし、私たちは小泉純一郎という現象を目の当たりにしたことを忘れないほうがよいし、また忘れるべきでもない。
小泉はニュースステーションをいわば「丸パクリ」したのだと私は思っている。世間では何が受けるかを察知して、ニュースステーションの批判対象を「抵抗勢力」としてレッテルを張りつけて煽ったわけだ。
テレビという小さな箱の中の世界で言っているに過ぎないと思われていたことを、本当に現実にやろうというのだから、多くの人は興奮した。熟練の政治家が本気で仕掛けたわけで、これはものの見事に決まった。
支持率が80パーセントを超えたとき、小泉支持に yes と答えた人のなかに、久米宏時代の「ニュースステーション」の視聴者が多くいたに決まっている。小泉こそ、「庶民」の溜飲を下げさせてくれた、しかもリアルに実現するものとして溜飲を下げさせたのだった。
以後、今日に至るまで、「小泉の丸パクリ」がさらにパクられ続けている。それが行き着くところまで行き着いたのが橋下だと言ってもいいかもしれない。
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ニュースステーションはやや左だったかもしれないが、小泉がニュースステーションの丸パクリをやった時点で、ニュースステーションの主張が右サイドのものに転換した。
ここで一つ言っておきたいのは、ごくごく一般の「庶民」には、政治のウヨサヨなぞほとんど分からない、ということだ。左翼だろうが右翼だろうが、関係がないし、理解もない。
たとえば、官僚批判がここにあるとして、それが左サイドからなされようが、右サイドからなされようが、多くの「庶民」にとってはあまり関係がない。官僚を叩いてくれさえすれば、それでよい。
小泉以降の流れを考えると、そういう理解でだいたい良いんだろうと私は思う。
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そして、根拠が薄い、あるいは的外れの批判を絶叫しつつ「改革」を煽り立てると、橋下徹のようになる。彼は、「小泉の丸パクリ」を人気テレビ芸人の弁護士としてパクってみたら大当たりした例だと思う。
たしかに大阪府民と市民は彼を信じた。しかし、大阪の人間だけではない。日本の右サイドの人たちは、みな彼を黙認した。彼を批判すると、「また左翼が吠えてるだけ」という程度の扱いだった。
言われる前に書いておくと、私はかつてこういうものを書いている。当時はまだよく分からなかったので、支持はしにくいが少し様子を見よう、という立場から書いた。
その後、彼の言動や実績を見るにつけ、無茶苦茶だと断じることにした。そういうときに、右サイドの人たちは相も変わらず「東京・中央には関係ない」「ほっておけ」「また左翼が吠えているだけ」というスタンスのままで、これに私は相当に呆れたものだ。
もっとも、上記の記事で書いたように、左サイドからの橋下に対する批判がすべて妥当だったとはとても思われない。どう考えても筋違いの議論や、単に党派性からのためにする批判が多く見られたので、過去の私の意見はその意味では間違いではなかったと思う。しかし、そこで左翼を嘲笑するよりも、より正しい批判がなされるように主張するべきだと思うし、それは右サイドからも可能なはずだった。にもかかわらず、そういう動きは見られなかったように思う。
右サイドが手のひら返しをやり始めたのは、本当に最近のことで、昨年の慰安婦に絡む発言でようやく手を引き始めたにすぎない。
本来複雑かつ多面的で、解決には非常な手間と時間がかかる問題について、人々に「こんなに簡単な方法がある」と意図的に単純化した議論を語り、「にもかかわらずあいつらは」と言って煽り立て、自派へ支持を取り込むこと
であるとするならば、橋下のやったことは悪しきポピュリズムそのものだと言ってよい。大阪都構想でも、行政批判でも、文楽の話でも、あらゆる話題で橋下のやったことはこれだった。
右サイドの人たちがこれを真剣に批判したとは、到底思われない。
特に、右サイドのインテリや学者については、強く批判しておきたい。こういう人たちこそ、ポピュリズムの気配が生じれば、それを察知する能力があり、それを批判でき、また批判するべき人たちだからだ。
ところが実際はどうであったかというと、ご覧の通りのありさまであって、党派的思考に縛られて「支持はしないが」と言いながら黙認・是認してきたのである。
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橋下は結局自分で勝手にこけてくれた。これは、彼は弁護士であるという強みはあっても、テレビ芸人として政治家になれたにすぎず、政治家としては半端以下でしかなかったので自滅したにすぎない。
しかし橋下がダメでも、「小泉の丸パクリ」が上手にできる政治家が出てきた場合、これに熱狂する土壌そのもの、世論の空気そのものは残っている。
東京の政治学者や識者、ネットではそれなりに信用されているような人たちが、総じて「大阪での話に過ぎない」という態度をとった時に、私が大変に憤慨したのは「関東も決して他人事の話ではない」「このポピュリズムは中央にとっても無関係の話ではない」と思ったからだ。なんで彼らは大阪の選挙民のことを安易に笑えるのだろうか。皆目理解できなかった。
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私たちは皆「ニュースステーション」の子だ。左が育み、右が大きく飛躍させた。そこに共通するのは悪しきポピュリズムそのもの。最初に「自分もニュースステーションの子のくせに何を言うか」と書いたのは、そういう次第だ。
にもかかわらず、なんで右翼は左翼を罵倒し、左翼は右翼を嘲笑できるのだろうか。
はなはだ疑問、というよりも、双方ともに自覚があまりにもなさすぎるのではないだろうか、と思うのである。