呑兵衛雑談(5) 無謬の「民意」 批判されえないメディア・ポピュリズム

では、そういうメディアを、ポピュリズムの点から批判する言説が出てくるかというと出てこない。出てこないというよりも、批判しようがない、できない構図になっている。これが一番の問題だと思う。

一つは、メディア上で高名な人がもしメディアによるポピュリズムを批判すると、その批判が自分に跳ね返ってしまう。

「あんた、誰のおかげで有名になれたと思ってるの?」
「有名なんだから、世間に受けることしか言ってないわけだ。あんたもポピュリズムの片棒を担いでるのに、何言ってんの?」

ということになるだろう。

これはネットでも構図としては同じだ。Twitter が良い例だが、フォロワーを集め続けると、その人たちに受けるようなことしか言いにくくなるものであって、またその受けるネタでフォロワーが増えるとますますほかのことが言えなくなる。

こういう構図そのものを、では万単位のフォロワーを有する人が批判できるかというと批判できない。なぜなら、フォロワーには批判的にフォローしている人も多くいるにせよ、自分だってそういう構図に乗っかってそれだけのフォロワーを集めているに相違ないからだ。

もう一つ、日本では「民意」ということが盛んに言われてきたが、この民意を政治に反映させようという点から言えば、ポピュリズムを批判できるかという問題がありそうである。

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たとえば、私は、橋下は明確に悪しきポピュリズムだと断じて憚らないが、しかし見方を変えれば、彼が選挙されているのは、民主主義が正常に機能して、「民意」が反映された結果であって、何も文句を言う筋合いはないということになる。

特に、橋下は元は行政に携わっていた人間でもなんでもなかったわけであり、その分、彼の主張を支持する民意が強く反映したと言ってよい。

それこそ、「ニュースステーション」的感覚でいえば、真に「民意」を体現するものとして、彼こそが理想であるべきはずではないか。

そこで二つのことを言いたい。

一つ目。橋下を生んだのは、「民意の反映」を強く求め続けてきた結果であって、その意味で左サイドが彼を批判する理由はどこにもない。「民意」を強く主張してきたのは、どちらかといえば左ではなかったかと思うからだ。

二つ目。そこで右サイドが左サイドを嘲笑して「勝利宣言」する理由はどこにもない。なぜなら、左派こそが生みの親であって、言っていることやっていることは右も左も結局同じだからだ。

左がまいた種を、右が収穫したのだ。

右も左も「民意」を主張する時代にあって、どうして、そして誰がポピュリズム批判できようか。

かくして、日本ではポピュリズムは全く批判されないまま、昔ながらの右翼左翼に分かれて、党派的に批判しあっているだけであるという仕儀に相成っている。

世間の人たちがどうでもいいことばかり話していて、問題の核心をどうして批判しないんだろうかと、私には不思議でならない。

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実は同様の問題は日本だけのことではないようだ。

最初の「呑兵衛雑談」で、悪しきポピュリズムとはなにかという問題に絡んで、スコットランド独立をめぐる住民投票に関するある政治家の見解を書いたけれども、たしか独立支持派のレトリックの一つに「民主主義を自分たち市民の手に取り戻す」という類のものがあったと思う。

この種の扇動はスコットランドのみならず、他の国々においても存在する。政治不信・政治家不信が一般的なところだと、「民主主義を市民の手に取り戻そう!」という訴えは非常に有効であり、またこれ自体は悪いこととは言いにくい。

しかし、市民の手に民主主義を取り戻すとして、それでどうするのか、どうなるのかという問題がいい加減であると、この種の訴えはポピュリズム扇動に都合の良い道具にしかならない。

日本で、「民意」を連呼してきた左サイド、左がまいた種を収穫して「民意」にふんぞり返っている右サイドとも、「民意」そのものについての反省があるのかどうか、はなはだ疑わしい。

しかし、仮に反省があるとしても、「民意」を連呼する以上、「民意」を批判することはできない。猫なで声で「民意」に媚びるしかできない。

私が最も問題だと考えるのはこれで、「民意」も「ポピュリズム」も誰も批判できない形になっている。他国を眺めると、「ポピュリズム」という単語を用いて批判するものが結構あるように思われるのだが、日本の場合、「民意」批判どころか、ポピュリズム批判のポの字も見ない。

本当の問題は、ポピュリズムの扇動なのに、日本では相も変わらず冷戦時代のままウヨサヨのプロレスの脳ミソのままで、党派的に左右が批判しあっているに過ぎない。愚劣、というよりほかない。

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もっとも、まっとうな「民意の反映」と「ポピュリズム」の違い、何がダメで何を是認するか、という問題は、私の手に余るので、ここには書かないし書けない。難しい問題だろうと思ってぼんやりしているだけだ。

しかし、そういう問題があると思って生きているのと、無反省のままに生きているのとでは、おのずから違いが出てくるだろうと、私は信じている。

まして、すべてを承知でポピュリズムを踊らせる人間たちには、深い怒りを抱えながら生きていたいと思うのである。