無知な大衆はダメなのでインテリが革命を起こしてなんとかする、というのは、18世紀末にナポリで失敗済みだ。この失敗に対する反省が、のちのちに影響を与えているそうだ。

 

 無知な大衆を教化しようというのも、たとえば日本の戦後左翼の種々の活動が結局失敗したのでこれもダメだろう。

 

 しかし他方で、有権者のニーズをすくい取って、それを実現するとか、マーケティングの様々な手法を使って権力掌握する、というのも、これは違うだろうと思う。

 

 こういうのは単なるポピュリズムとかデマゴギーとかいうものだと思うが、今では世界的にどこでもこうなっている。

 

 当然、一定の批判はあるべきだろうが、日本の場合、右も左もやってることはポピュリズムだけで、ここで絶望しか私は感じない。

 

 社会がどう進めばいいかは、ある程度の合理性に基づいた判断があるべきなんだろうが、しばしば世論はその合理性についていけないものだし、あるいは明らかに非合理的で間違っていることも少なくない。そういう時には、政治家や専門家たちはどうすればよいのだろうか。

 

 そこに政治家の難しさがあるのだろうし、専門家の責任や、インテリ知識人の責任、エリートの責任というものもそこにあるのだろう。

 

 ・・・と、私は思うのだけれども、現実には、大衆という名の見のほど知らずのアホをいかに自分に都合よく利用して、社会的地位の上昇や経済的な利益の獲得のことしか考えていない人間が多すぎる。

 

 そんなことでいいわけがないんだけれども。