なぜ人は陰謀論を信じるか:安易な俗論を排す

あらかじめ書いておくと、なぜ陰謀論を人は信じるか、という疑問について、はっきりした回答は持っていない。感触のようなものはあってそれは書けると思うが、その上で世上で論じられがちな安易な議論に対して疑問を呈したいのである。

ニセ科学でも陰謀論でもなんでもいいが、この種のものに対する対抗として、科学的思考能力やクリティカルシンキングロジカルシンキングの大切さがよく語られてきた。このブログでも基本的には同感であって、その線で書いてきたものと思う。

しかしながら、世間を広く眺めて考えていると、そう簡単な問題ではないのではないかと気づかざるを得なかった。というのも、科学的思考やロジカルシンキングができるはずの人が、陰謀論にはまったり、おかしな議論を吹いてみたりすることを、しばしばどころでない頻度で見聞するからである。

なぜそういうことが起こるのか、よくよく考えてみなければならない。

たとえば、物理学のある分野の専門家がいるとしよう。その人はその分野に精通していて、間違いのない判断ができるはずである。科学的思考・ロジカルシンキングの塊のようにみえる。

ではこの人に、仮に歴史の問題について考えさせるとしよう。専門と同様に、ロジカルにものを考えてくれるのだろうか?

おそらく、それは保証の限りではない。なぜか。

その物理学の専門家がロジカルに科学的にものを考えることができるのは、あくまでも物理学のその分野においてどのように考えれば科学的な判断ができるかという訓練を積んできたからだ。

他方で、歴史学において合理性高くものを考えるというのは、物理学とはまた別の訓練が必要とされるところである。物を考えるための方法も、思考の枠も、まったく異なるのは自明であろう。

したがって、物理学のその専門家が自分が体得した「ロジカルな」ものの考え方をダイレクトに歴史学に持ち込んでしまうと、それは非合理なことになりかねないし、実際にそういうことになる。

逆に歴史学の専門家が物理学にダイレクトに踏み込んでも、同じようなことになるだろう。

つまり、科学的に思考できる、ロジカルに思考できると言った場合、一般的な思考能力を指すと考えられているが、それほど事態は簡単なものではない。現実には、ある特定の対象についてロジカルに処理できる、ものを考えることができるということなのであって、そのような能力を訓練を経て獲得したにすぎず、その特定の対象から外れてしまうときちんと考えられなくなるものなのではないか。

たとえて言うなら、ピアノの名人にいきなりバイオリンを渡して「お前は音楽家であり、しかもピアノの名人なのだから、バイオリンくらい軽く弾けるだろう」と言うようなものだ。もちろん、これは無理な話であり、いかにピアノの名人といえども、練習しないとバイオリンは弾けるようにならない。

ところが、ここに悲劇がある。ピアノの名人にいきなりバイオリンを渡しても、ギコギコと情けない音で弾くしかないので、誰の目にも「この人はバイオリンは弾けない」と分かる。本人にもそれは明らかであろう。

しかし、物の思考に関することとなると、これほど明瞭に能力の差が知れるわけではない。物理学でロジカルにものを考えられる人であれば、当然、他の分野でもロジカルにものを考えられると、えてして錯覚してしまいがちであるし、その当人にもよく分からなかったりする。

これは喜劇と言ってもいいのかもしれないが、悲劇だろうと、私は思う。

とりわけ立派な大学の教授や研究職といった優れた肩書きがついている場合、仮におかしなことを言っているとしても、同種の錯覚の上で議論が進み、かつ受容されてしまうわけで、本来こういったことは公平に批判されてしかるべきだが、しかしながら現実にはそうならないし、なっていない。

同じようにおかしなことを言っていても、ある人は批判されるが、また別の人はなぜか批判されないというダブルスタンダードが横行する。

そこで、なぜ人は陰謀論を信じるのかということだが、理由の一つとしては、合理的にロジカルに考えようとして、陰謀論にはまると言うことはありがちなことではないか。

たとえ物理学の大家であっても、たとえば歴史や社会の問題について合理的に考えるというそのやり方を知らない場合、「ロジカルに」考え、ある現象の理由を探し求めた結果、陰謀論にはまるということは大いにありうることであり、そう考えないと筋が通らない。そして、歴史や社会の問題について合理的に考えるやり方を知らない科学の先生というのは、決して少なくないのである。

そして、当の本人はロジカルにものを考える訓練を経ているのだから、自分は論理的科学的思考ができていると信じ込んでしまっていると、自分が信じている陰謀論はロジカルなのであって、私が悲劇というのはここのことである。

さて、そう考えた場合、陰謀論にはまる人や「ニセ科学」とされるものを信じ込んでしまう人を、科学サイドから本当に批判的に論じることが可能なのかどうか。可能だとは思うが、いささかの留保は必要とされるはずである。

あくまでも一例として取り上げるのみで他意はないんだが、ニセ科学批判を主導するお一人である天羽優子先生は、無茶苦茶な右翼であって、国籍法改正の時に暴論を張ったことはこのブログでも取り扱ったし、確か別所でも書いたんじゃないかと思うが、その際に着いたブコメに、

「専門外ではままあることだ」

というコメントがあって、唖然としたことがある。

ニセ科学を信じ込んでしまう人の多くは、おそらく「専門外」のことを信じてしまっているはずであって、ニセ科学批判が批判しているのはまさにそこのはずではないか。

ニセ科学を批判する権利がなぜ自分たちにあると信じることができるのか。全く意味不明なうえ、その無反省ぶりはいったい何なのかと憤りもした。

つまり問題は、自分は論理的科学的思考ができるという安易な確信だ。あるいは、単にある特定の対象について論理的に考えることができているにすぎないものを、あるいはそういったことができるように訓練によって獲得した能力に依存しているにすぎないものを、一般的に通用する能力であると錯覚したうえで、他者を批判することができると信じているその態度だ。

これはいったい何なのか。本当に問われなければならないのは、そこなのではないか。

冒頭に書いた通り、なぜ人は陰謀論を信じるかという問いに対する回答は、私自身は持ち合わせていない。

しかし、世上において語られがちな議論はおそらく全く間違いだろうということは言えるし、言ってもかまわないだろうと確信している。そういう反省というものが、ネットでほとんど見られないのが、私にとっては大いに不満なのである。