雑感

これは書かないでおこうかと思ったけど、記録がわりに書いてしまう。私は一貫してニセ科学批判はおかしいと書いてきたが、ニセ科学批判と今の理研の件に対する反応と、おそらく通底するものがある、という印象についてである。

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昨日、ある夕刊紙が見出しに「理研 再現隠し」とデカデカとのせているのを見て卒倒しそうになった。もちろん、理研が「再現隠し」をやる理由はどこにもないわけで、素直に考えればこの見出しには理がないことになるわけだが、しかし夕刊紙レベルでは読者層はそういう認識を持ってしまっているという現実を端的に表している。

この種の意見なり認識なりは夕刊紙レベルのみならず、世間を見聞すると、ごく一般に広まっていると言ってもよいのではないかと思う。当然のことだがこの認識は誤っている。

しかしながら、こういう誤解、あるいは錯覚を世間がしてしまうのは、これは科学の側がことの進め方を完全に誤ったからだということにつきる。

その点を反省している人というのが、一体どれだけいるのだろう。私が思っているのはこのことである。

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世間のこの種の認識が生じる理屈はおおよそ次のようなものであると思う。

「彼女は将来有望な若手研究者なのに、失敗した、間違えたというだけでひどい扱いを受けている」

理研の「再現隠し」という発想も、記事そのものは読んでないが、おそらく「理研に問題があるんだ」云々という話になっているはずである。

このような誤解・錯覚に対して、真っ当なサイエンスの側からいろいろな反論が出ているところであって、それはネットのあちこちにみられるので省略するが、もちろんその反論はそれはそれでいい。

問題は、真っ当なサイエンスの側から出てくる反論が、世間に届くのかという問題なんじゃないか、と私は思う。結論としては、世間はそれを理解しないんじゃないかと思うし、実際、今までのところ理解しているようには見えない。

なんでなんだろう。

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いろんな要素があって、一般人が学術論文を書くことなどないのであって、それを書く人と書かない人の認識の差という点を挙げる人がいた。あるいは夕刊紙のような認識を示す人やメディアというのは単純に頭が悪いのだ、ということにしてもいいかもしれない。どれも、それなりに一理あるものと思う。

しかし私が感じるのは、世間を説得しきれないのは、世間がそういう誤解をするに際して設定している前提をちゃんと否定していないからではないかということだ。つまり、世間は、

「問題の彼女は、研究者である」

という認識を前提として持っているが、しかしそもそもを言えば実際には、

「そもそも彼女は、研究者でもなんでもなかった」

わけである。その点を真っ当なサイエンスの側が強調して世間に対峙しているだろうかというと、どうもそういうふうには私には見えない。むしろ、世間とこの前提を共有しているように見える。

前提を共有している限り、世論の誤解を完全に否定するのは難しいのであるから、前提から否定してかかるのが当然なのではないかと考えるところ、そうならないのはなぜなのか。

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以下、これは自分なりの意見なんだが、なぜそういうことになっているかというと、「彼女は研究者である」ということに一応はしておかないと困る人が多く出すぎるから、ということなんだろうと思っている。

こないだ、英文科を卒業しただけで学術とは縁もゆかりもない還暦のオバハンに、私の意見を聞かせてみたら、即座に言ったことは、

「そしたら、誰が彼女を指導したんだってことにならないの?!」

ということで、私は、まさしくそういうことになるよ、と答えたんだが、根本的な問題は、

「研究者扱いしてはいけない人を研究者扱いしてきた理由は何か」

であるはずで、これに対して真っ当なサイエンスの側がしっかり答えているとはとても思えない。還暦の普通のオバハンでもすぐ分かった疑問に、真っ当なサイエンスの側が本当に答えてきたのか。

さらに、常識的に考えれば、彼女だけがうっかりそういう扱いを受けていたとは到底考えられず、他にも「研究者扱いしてはいけない人が研究者扱いされている」例が非常に多く存在するのではないか、と疑われるわけである。

これは、サイエンス全体の信用の問題であって、ある一部の責任に、つまり問題の彼女や理研だけの問題にすることができるとは、ちょっと思われない。

したがって、素直に理屈だけで考えれば、博士号を持っている人は本当に博士に相応しいのか、全部をチェックして、そうでない人が見つかった場合には指導教官からなにから、全ての人は責任をとるべきである、ということになる。

・・・しかしまあ、そんなことは無理だ。

そうなると無理やりにでもトカゲのしっぽきりをやらなければならないわけだが、世間はそのあたりのうさんくささを敏感に察知して、それが「理研 再現隠し」という夕刊紙の見出しに集約されている、と考えてよいのではないか。

だいたい、世間が彼女は「研究者」であるという前提をもった理由は、真っ当なサイエンスの側が彼女を「研究者扱い」し続けてきたことに由来するんであって、世間はバカだと真っ当なサイエンスの側がバカにする理由はどこにもない。

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真っ当なサイエンスの側が、このトカゲのしっぽきりの無理やりさ加減を自覚していればまだよくて、実際自覚している人もいるのではないかと思うが、twitter などをざっと見ていると、多分自覚してない人の方が多い。自分たちには関係がない問題だと思っている人が多いのではないかと疑われるが、もちろん仮に自分はきちっとしていても、自分が所属していた研究室や指導教官がまともであっても、全体の問題なんだから、関係があるはずなんである。

そこで、ニセ科学批判と問題が通底しているんではないかというのは、おおよそ次のようなことではないかと思う。

一つは、サイエンスの側がこれが正しいもんは正しい、間違っているもんは間違っている、と言ったところで世間が素直にそれを理解して受け入れてくれるとは限らないわけで、サイエンスの側はそれをよく了解しておくべきだ、ということだ。

世間がサイエンスサイドの主張に理解を示さないのはそれなりの理由があるはずだと考えるべきであって、そこを吟味するに際して、サイエンスの側に問題がないと断言することはできない。

もう一つは、サイエンスの側に問題があったとして、それはないものとしてロジックが組まれて正当化されてはかなわないということだ。元来、ロジックは真理探究のための道具であるとはいえ、理屈というのはどうとでも作れてしまうのであって、ロジカルに考えれば誤りが分かるはずだ、とあっさり考えるのは安易にすぎる。

それもサイエンスだけのことならまだしも、今回のように世論・世間や社会がかかわる問題となると余計にそうなるのであって、理屈だけで事を処すということはできない。右でもない左でもない、ちょうどいいところでロジックを組み上げないと、双方に理解してもらえないので問題解決はできないにもかかわらず、サイエンスが「これが正しい」と宣するのみでは、サイエンスの側の勝手な理屈というよりほかない。その「勝手な理屈」をロジカル・理論的・合理的云々という言葉で正当化されるのは、ちょっとたまったものではないな、と思う。

今回の件が起こった時、これはサイエンティストたちにはとても対処しきれない問題なんじゃないかと思い、今までのところどう見てもまともに対処できていると見えない。なんで「これはとても対処しきれない問題なんじゃないか」と思ったのかというと、ニセ科学批判の議論をこのブログで検討した結果、日本のサイエンティストたちは、専門はともかくそれ以外はろくなもんじゃないと痛感したからであり、そういう人たちにまともなマネジメントなどできるわけがないと直感したからだ。

今後、事態が善くなるか、大事件が起こって世間がこの件を忘れてくれるか、うまく行けばいいとは思うんだが。。。