ネット○○派 part89

斉藤環氏に見る俗流カルトバッシング論批判 : 社会学玄論

既存の社会の価値観を疑うことなしに、社会が支持する通俗道徳に準拠して、他者批判を行うニセ科学批判者は社会に洗脳されており、基本的に保守的である。ニセ科学のビリーバーに対して信じるな疑えと言っているが、当のニセ科学批判者自体が通俗道徳のビリーバーなのである。ビリーバーという観点からは、目くそ鼻くそを笑う関係である。

そう。結局「人が死ぬのはよくない」とか「詐欺はよくない」みたいな世間の道徳を水戸黄門の印籠にするしか、最終的に手がなくなっていて、そういう意味では非常に保守的だと思う。。。でも、ニセ科学批判を主導する人たちって、天羽先生以外はたいてい左翼なんだよなあ。この辺がおもろい。

ニセ科学批判者たちがこの処方箋を理解できないのは、彼らが自己の所属する社会の支持する科学と通俗道徳を絶対化し、思考停止に陥っているからである。さらに、他の観点を受け入れず、また自己の観点のみが議論するに相応しいと絶対化するのも特徴である。

ここが微妙なところで、、、
カルト信者をつくらない処方箋としての相対主義 : 社会学玄論

ニセ科学批判者は、反科学的なものに対して闇雲に全てカルトであるというレッテルを貼り、価値を貶める傾向にあるので要注意である。反科学=カルトという図式を安易に使用しているブロガーがいるので、ここで釘を刺しておこう。

現実には、ニセ科学批判は反科学的なものに対して「闇雲に全て」カルトであるというレッテルは貼ってない。宗教ネタは扱わないことに一応なってるし、鍼も漢方も科学的な裏づけは怪しいけど叩かない。そして繰り返し言うのは、科学に限定しているという一言。


つまり、ニセ科学批判派としては、こういうポジション取りによって一定の相対性を担保しているつもりになっているのであって、したがって「科学教」「科学原理主義」という悪口が通じないということになってる。


他方で、

ネット上のことであるが、ニセ科学批判にまつわる記事を書くと多くの信者さんが私を説得に来たことを記憶している。強引な他説攻撃による説得行為こそがニセ科学批判をカルト化する主な要因となっている。

この種の攻撃性はネット○○派に共通して見られることだけれども、自分たちの言説の正当性を深く確信していないとこういうことにはならない。つまり、ホニャララ原理主義化している面はやっぱりある。


・・・ねじれてんだよね。ニセ科学批判は見かけが科学なので、ついつい科学の議論に引きずられてしまうんだけど、実際には原理主義化してるのはちょっと別の部分だったりする。で、このねじれにニセ科学批判の人たちは気づいていない。

事実=真理は一つという固定観念でもって、ニセ科学が科学的に間違いであると批判することは、諸刃の剣である。そうなると、意識構造が変わらぬまま、ニセ科学ビリーバーはそのままニセ科学批判ビリーバーとなるのである。

元オカルト好きの人が突如改心してオカルト叩きをやるというのは、ありがちな話。


前々から書いてるように、ニセ科学批判を主導する先生たちが、政治的にかなり右だったり左だったりするというのも、根は同じことだろうと思う。自分のイデオロギーの正当性を深く確信できるタイプか否かの問題で、科学がどうのという議論はあまり関係がない。


それでも海外のSkepticsと同じことをやるならまだしも、Skepticsの悪い面だけ取り入れてしまった感じだなあ。