ネット○○派 part324 風車を化け物だと思う人々

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というかネット上のなんとか運動がみんな「今の悲惨な状況はあいつらのせい→あいつらは絶対悪→悪と戦うおれたちは正義→だのに俺たちの思い通りにならず悪がのさばっている許せない→悪の言い分を垂れ流すマスコミが許せない」とレールが敷いてあるかの様なお決まりのコースをたどるのは何故だろう。

これ、全く同感なんだけど、なんとか運動が行う最初の問題設定のところからまずずれてるんだと思うんですよ。ネットでいろいろ見てきて思うのは。


ようするに「あいつらのせい」の「あいつら」がそもそも絶対悪だというところから始まって「も」いて、そうするとそこで循環しちゃう。つまり、むしろ「あいつらは絶対悪→今の悲惨な状況はあいつらのせい」と。


では、「あいつら」が絶対悪だとする根拠ってなんですか?となると、ちゃんと考えるとそもそもそう判断する根拠がないか、根拠薄弱で終わることのほうが多い。


それでも、「あいつら」は悪いに決まってるわけで、そうなるとどんどん「いかに自分たちの考え・行動が正しいか」と自己正当化を繰り返すだけになって、まあ、早い話が中毒になるだけでおかしくなるんですよね。


ネット右翼とかの「特亜」呼ばわりって、あれはまずその種の差別感情が根底にあって、そこに色々くっつけているだけでしょう?で、色々くっつけていくたびに、どんどん自分たちが「正義」になっていくと。


他方で、たとえば「愛国心は自然な感情」といった類の言説をかなり自明なものとして取り扱ってしまいがちで、結果これに反するものは「敵」だという理屈立てに非常になりやすい。


ニセ科学批判なんかも同じで、まず「詐欺はダメ」「差別はダメ」とそういうところから入る。で、騙しの道具に科学が使われるのはたまらないという理屈が一つと、そもそも合理主義を尊ぶ面からいくと非合理なもの(科学的根拠のないもの)は最初からよろしいものとは見られないと。ニ正面から負けない理屈を作って、「ニセ科学」という敵を設定してしまう。


じゃ、そこでその「敵」がどの程度悪なのかという点については、ま、(運動参加者たちにとって)ほぼ自明なものだから「悪いに決まってる」とかいう話で終わっちゃう。それはネット右翼の「特亜」などなどの仮想敵もニセ科学批判の「ニセ科学」も。


つまり、少し言葉を変えて繰り返すと、「敵」をまず設定しておいて、その「敵」を過大に見積もることで自己正当化の言葉が膨らんでいくし、また自己正当化すればするほど「敵」も大きくなる循環になると。まあ、この種の敵を設定するのはどんな運動でも同じなんだろうけれども、ネットの場合は言葉だけのやり取りなので、すぐエスカレートするだけのことなんだろうと思う。


そして、そこで設定された「敵」を「敵」たらしめるところになにか自明の前提があるんだけれども、その前提は自明だからよく検討されない。ただ、その自明の前提を共有するものたちが「ネット○○派」を形成している、、、ように見える。

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リフレ派なんか、最初はまだましだったような記憶があるんですよね。それもたぶん、Bewaadさんなり、亡くなった岡田靖さんあたりが歯止めになっていたんだろうと思うんだけれども、その歯止めもなくなってしまったし、あるいは田中秀臣先生なんかはだいぶ以前から日銀叩きにいそしんでおられたような記憶があるな(ちゃんと確認してないからそこは留保するけれど)。


さらに、リフレ派が「リアルポリティクスw」をやる過程で、まず「敵」を設定したうえであれこれものを言う人たち、、、つまりその種の右翼を利用するつもりがのまれてしまっている格好になっていて、ますます「敵」を叩く方向に行ってしまった。もう歯止めとなるものが、本当に何もない。


残るのは「自分たちは正しい」「自分たちは賢い」という自己満足だけ。ニセ科学批判がネット右翼と同じだと同様に、リフレ派もネット右翼と同じになってる。

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なんなんだこれは、ということなんだけれども、毎度書くように、結局この種の「敵」「悪」を設定して「それに立ち向かう正義の自分(たち)」という枠組みでものを考えるのが好き、あるいはそこに酔ってしまえるタイプの人がいるということであって、最終的には性格とか思考のクセとか、そういう問題なんだろうと、僕は思っています。


つまり、理屈で考えたら分かるとか、落ち着いて話し合えば分かるという類の問題ではないので、こうなるとこちらとあちらでは決定的に話が通じないということになるし、実際全く話が通じないのが現実だろうと思う。

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後は全く付け足しだけれども、ネット上で、とりわけソーシャルネットワーク界隈で、ネット上のコミュニケーションを過剰に有難がる風潮(「絆」とか言ってみたり)に全く懐疑的なのはこのへんの問題を意識しているからで、リアルでも難しいのに、ネット上で他人とコミュニケーションをとることをあまりに安易に考えていやしないかと、全く賛同できない、気に食わない気分でいます。