ネット○○派 part314 

「科学者には科学を盲信しているのが多い」という意見(いわゆる「科学教信者」呼ばわり)が出てくる理由としては、たぶん、次のような説明の仕方もできると思う。


一つは、「本人の自覚はともかくとして、外から見るとそういうふうに見える」という問題があって、たとえばホメオパシー批判の場合、いくら「まともな科学者は穏健な相対主義くらいわきまえているものだ」と言われても、科学の問題と社会問題をごっちゃにして論じて、あるいは科学の範囲をうっかり越境してダイレクトに「社会におけるあるものの存在は認められない」と主張しつつ「これが正しい」「誤りを正してるだけ」とやられると、外から見ると「科学教信者」に見られてしまうのは当然でね。


もうひとつは、そのような越境の自覚がない人は本当に「まともな科学者は穏健な相対主義くらいわきまえている」と言えるような認識を持っているのかという問題があって、越境の自覚がない以上、おそらく無自覚に「穏健な相対主義」を投げてしまっているのではないかと疑問に思っている。

いわゆる「科学教」呼ばわりには案外味わい深いところがあって、「正しい」「正しくない」の話になると、「自分は」これが正しいと「思う」という言い方しか、とりわけネットでは、できない。


そこでたいてい、「いや科学の手続きが云々」という話になって、非常にごもっともなんだけど、そうやって言えば言うほど「自分たちがいかに正しいか」を主張することになってしまっていて、ますます「科学を盲信している科学者が多い」ように見えてしまう結果になる。


放射性物質をめぐって衝突するのもこの辺りの問題で、科学的に正しい正しくないの問題というよりも、結局自分が正しいと信じることに関する信念のぶつかり合いの問題になるので、そこで「○○教」のぶつかり合いになってしまう一面がある。


で、一番の問題は、これはあくまでも「信念」の問題なのだという認識を持っているかどうかであって、何が正しいか正しくないかの問題ではないと思う。


とくにニセ科学批判の人たちはそういう認識をおそらく持っていない。なぜなら、自然科学を専門としている、あるいは専門の教育を受けた自分(たち)は自然科学はどういうものかよく知っていて、十分に懐疑的で、「穏健な相対主義」をわきまえていると信じているので。しかも、言っていることそのものは正しいわけでもあるので、非常に錯覚しやすい。


たしかに自然科学がどういうものかよく知っているのかもしれないけれど、その知識を使って一般とどう向き合うかということは全く別問題なんだという認識が、おそらくない。持っているつもりなら、うかうかニセ科学批判に乗っかったりしないはずだし、乗っかるべきでもないと思う。


いわゆる「科学教呼ばわり」が興味深いのは、そのあたりかな、と僕はそう思っている。